日本明慧


協調と修煉 

 文/ジョン・フレック

 【明慧ネット4月25日】数年以来、私は毎日ドイツ語の大法サイトの掲載文章を見ており、最初からこれらの学習者の修錬体験に感動しており、更に精進するよう励まされてきました。それにしても、これらのサイトを常時更新している学習者のことについて何も思っていませんでした。もちろん、彼らは世界中の法輪功修錬者が交流できるプラットフォームを作っており、皆が法理に基づいて向上できる環境を提供しているだけではなく、邪悪を暴露し、正法の過程を反映するなどの様々な面で大きい意味を持つことも分かっています。

 約1年半前に、ある学習者が私に文章を1つ翻訳してくれないかと頼んできました。私は喜んで引き受けて、完成させましたが、それがスタートで最初は断続的に手伝う形から、徐々に1日一篇のペースとなったのです。それまでは1つのプロジェクトに継続して参入できず、何か大きいイベントがあるときに参加する位だったので、たくさんの困難を乗り越えなければなりませんでした。パソコンの前で英語の文章をドイツ語に翻訳し、毎日同じことを繰り返すなか、段々自分の惰性とその他の執着心を放下できるようになりました。それまでは、「明日やることにしよう」とか、「今日はここまでだ」の考えがよくありましたが、翻訳を担当し始めるとなくなりました。

 それから、以前にやった多くのことが自分を証明するためであり、法を証明するためではなかったことに気がつきました。大法の仕事では以前でも多少の成果があり、周りの学習者から感心の声もありましたが、翻訳作業は地味で、脚光を浴びるようなことがほとんどありません。あるのは修錬だけで、つまり自分を抑え、執着を放下して、何のためにやっているかを自覚し、そして正念を持って作業を進めることです。

 半年前に私はあるプロジェクトの協調人をやってくれないかと頼まれました。できる可能性があることも分かっていましたが、当時はまだ自分が適任なのか、時間的に大丈夫かどうかは不安がありました。

 私は師父の、時間を調整して仕事を運ぶようにという法を思い出して、現状ではどういう時間が利用できるかを考えることにしました。確かに可能性があるのです。そこで、私は毎日の通勤時間を利用して新しいプロジェクトの仕事をすることにしました。やってみればわかりましたが、実際、朝1時間早く起き、夜1時間遅く寝れば、仕事をすべて完了することができるのです。

 大法の仕事自身に修練の要素があるので、翻訳グループの協調人を務めはじめてから、自ら向上できるたくさんの機会があることに気づきました。例えば、ある日ある学習者が私に連絡して、自分も大法サイトの翻訳に参加したいと言ってきました。私は大変歓喜して、すぐに文章を彼女に送り、大体の訳し方を説明しました。その時修練状況を含める彼女の状態については何も確認しませんでした。

 そんなある日、この同修から長い手紙をもらいました。手紙の中で彼女は旧勢力・化け物・黒い手などの文章を翻訳するときに体が感じた不調のこと、それから、自分が修練できるかについて疑いがあることを書きました。私にとってこれは大きな衝撃でした。ほかの人が翻訳グループに参加するときに、私は喜んでいるだけではよかったのでしょうか?同修の修練状態にはあまりにも関心が足りなかったのではないのでしょうか?

 当時の彼女は周囲に修練して間もない同修が一人いるだけで、ほかはみんな修練しない常人ばかりでした。ほかの協調人と簡単な交流をしたところ、彼女が同修との交流が足りないとの問題があることに気づきました。そこで彼女のために何かできないかと、私はメールで交流することにしました。その後、彼女は自分が担うべき責任と状況の改善のことを私に教えてくれ、何とか難関を乗り越えられたようでした。

 それ以来、私は定期的に彼女にイベント報道と個人修練の交流文を送っていました。私はこのことを通じて、無責任にただ仕事の指示をし、同修が何とか理解して処理できるだろうという姿勢では物足りないと思うようになりました。師父が教えてくださった「彼のことはあなたのこと」の如く、私たちは同修に何かの問題があるとわかったときに、自分のことのように、ともに解決案を探れれば、大法サイトを含む仕事が順調に運ばれ、あるべきパワーを発揮できると思います。

 プロジェクトの協調人を務める以上、同修の修煉上弱点を触れることを避けては通れません。どうやってこれらの弱点を共に分析し、一緒に克服できるかという点に関しては、協調人の仕事には責任のほか、大きな挑戦意味があると思います。私は以前、仕事に不足していることに関しては進行しなければならず、ほかの同修に迷惑をかけていけないので、黙々と補うべきだと思っていたのですが、それが特定の状況にしか当てはまらないと今思います。これは、黙々と同修の不足したところをカバーするだけでは同修が自ら内に向かって探り、そして向上できる機会を失いがちだからです。

 私はこのことのもう一つの面に気がつきました:自分が仕事に何か足りないところがあるときに、必ずそれを補ってくれる同修がいます。それ自身がよいことではあるが、段々と自分を放任し、結果的にほかの同修に負担をかけてしまう事になりかねません。私たちは仕事を自分のできる範囲で満足に成し遂げた時、初めてほかの同修のために考えてあげることになるのではないでしょうか?

 大法のウェブサイトは邪悪にとっては鋭い剣であり、悪事の暴露で邪悪が酷く恐れているのは間違いありません。それゆえ同修にかかる邪魔も多く、感じるプレッシャも大きいのでしょう。しかし、少しでも隙があると、すぐに邪悪に増幅され、大きな問題になりがちです。翻訳者は単純に翻訳のみをしていて、持つべき使命感がないと、邪悪に隙を狙われ、全体に悪い影響を及ぼす可能性があります。そこで協調人の修煉状態が特に重要だと考えますが、一大法弟子としての三つのことを全部遂行できることこそ、邪悪による邪魔を根絶し、プロジェクトに携わる同修に必要なサポートができると思います。

 私がもうひとつ痛感するのは同修間交流の重要性です。ここで言っているのは仕事の行い方に関するものよりも、法理に対する理解の交流を指しております。一緒になって法を学び、交流をすれば、修煉で生じたたすべての問題を解決することができます。また、私たちは一緒にいる時間を大切にし、表面のことではなく、真の交流ができるようにしたいのです。もっとたくさんの文章をドイツ語ウェブサイトに載せ、みんなが真に向上できる環境を作りましょう。

 最後に、これほど完璧な修煉環境を按配してくださった師父に感謝します。交流をしてくださり、修煉の道で支持をしてくださる同修達に感謝します。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/3/22/123454.html