日本明慧


協力調和する中で自分を修正し、不純を取り除く

 文/大陸法輪功学習者

 【明慧ネット2006年5月10日】師父は話されました。「もしある地区がとても良く行うことができていれば、そこはきっとこういう情況です。つまり、責任者がただ何かのことを行うべきだと言うだけで、法輪功学習者は自発的に協調を取り、困難を克服し、法輪功学習者の智慧を十分発揮してこのことが正しく行われ、より完璧に行われるようにするということです。つまり、責任者はこのことを綿密に考えておらず、ひいては手落ちがあるかもしれませんが、法輪功学習者はそれを実行する過程でそれを完璧にするということです。これこそがあなたの威徳です。困難の中で不平不満を持たないでください。誰それに見せる必要もありません。あなたが行ったこの全ては師父と神々が見ています。良く行うことができれば、それはあなた自らの永遠の威徳です。」(『アジア太平洋地区学習者会議での説法』)

 実際の修煉の中で私は体得しました。師父の話された一言一言は、私達が実際の修煉の中で多くの人心を取り除かなければならず、多くの寛容を修めて、やっとやり遂げることができます。この方面で私は深い体験があります。同修との調和と協力の中で最も際立つのは自我に執着することです。自分の認識に執着し、自分の観念に執着し、自分がやったことに執着するなどなど。思うだけでその文字が頭に来ます(事後にやっと法が大事で、自我を放棄しなければと思い付く)。これらの執着が衝撃を受ける時、また嫉妬心、闘争心が生じて、他人に協力したくなくなります。しかし、嫉妬心、闘争心の背後には、大法の中で名や利益を求めています。

 私は修煉を始めてすでに11年になりますので、常人のものは淡泊に見ることができると言えますが、大法の中の利益は放棄したくありません。これらの名利の背後には、つまり師父が話された「……あなたがあの常人を放下できないため、それによって仕事をするとき心がアンバランスです」(『更に執着を捨て去る』)で、それはつまり千百年来骨身に形成した人の理、人の観念、人の思惟で、これらの理、観念、思惟は修めて捨てるべきものであり、修煉はまさに「あの常人」を修めて捨てることではありませんか?そしてこれらのものは仮相だったり、謎だったりします。この仮相、謎から跳び出したければ、常人の理で量るのではなく超常的な理で自分に要求しなければなりません。

 多く法を学んで、多く法を学んで、頭に多く詰めれば、常人のものは少なくなり、常人を抑制することができます。いつも自分にこのように厳しく要求し、時間が長くなると、常人を超えるのではありませんか?師父の話されたとおりにやったのではありませんか?今正法がすでに最後の最後の段階にきており、自分の修煉も正法進程についてこそ、正法進程の後肢を引っ張らないと私は体得しています。

 修煉の中で、私はいつも自分に聞きます。あなたは師父を100パーセント信じているか?どうしていつもできなく、できたときもだらだらとしているのか。異なる意見、或いは非難に対応するとき、内に向かって自分の不足を探すのではなく、かえって常に心の中では気を悪くする、これは修煉なのか?これはどう修めているのか、目は他人の欠点を注視して、他人が修めても私はどうなるのか?これは本当に馬鹿なことではないか?時には真相を伝えるとき気分がよくないと、話したくなく、情に制御され、自分が来たときの使命と責任を忘れ、真相を伝えることを規定外のことだとしてしまう。私は再び自分に聞きます、あなたはこれをするのではないか?これをしに来たのではないか、怠惰になったのか、安逸を求めて、怠けたのか?もし私が真相を伝えること、衆生を救い済度することを私の人生の目的としたとき、私はまるでご飯を食べること、衣服を着ること、水を飲むことのように正常にすることができ、その他のいかなる考えがあるはずがない。これも私のまだ転換できてない人の観念だ。

 師父の『ロサンゼルス市での説法』が発表されて、正法がまた新しい段階に入っており、自分の修煉の中で師父が私達に要求されたのはやり遂げることであり、ゆっくり修めることではないと私は悟りました。全体的な協力の中で、正法の進程についていかなければならない。自我に執着しないことで、初めて他人に協力でき、寛容を修めて初めて、ようやく黙々と補いができ、円容し、他人を責めることなく、憎まないことができます。私を修めて捨てて初めて隔てを除くことができます。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/5/10/127287.html