日本明慧


「私も」という言葉に対する感想 

 文/大陸の大法弟子

 【明慧ネット2006年5月3日】何人かの同修たちと一緒に修煉体験を交流したことがある。同修Aは「この数日間とても精進せず、座禅する時も知らないうちにぼんやりしてしまった」と言った。同修Bも続けて「私もそうです。10分間発正念をする時も眠ってしまいました」と話し、同修Cも続けて「私もそうです。煉功する時ぼんやりするだけじゃなくて、法を勉強する時も寝てしまうときがあります。私は眠ければ寝ればいいと思います。この一日か、二日くらいは気にしません」と同調した。

 学法と煉功だけでなく、一部の同修は真相を伝えるとき、資料を配布するときも気を緩めている。この間精進しないとか、今回出張する時に真相資料を持参しなかったと言っている。数人の同修が一緒にいる時、一人がある事に対して気を緩めていると話すと、続いてまた一人または数人の同修も同調して「私もそうです」と話す。最近は真相資料を積極的に配ってないなど。「私も」と言う同調の声はいつも誰かが言っていて、人が神になる道の中で三つの事をやり遂げることについても「私も」と同調する人がいる。いつも同調する同修がいるから、「私も」と言う同修と同調する同修の心がバランスを保つ事ができて、みんな自分を許す事ができる。結局私と同じの人がいるから、この現象は私だけのことではないと思ってしまう。

 押し広げると、いつも一部の人がこのような自分に対する許しと慰めの中で、1日また1日、1年また1年を過ごしている。だからよく修煉しようとするには、人が神になる道の中で飛躍的に進歩するには、必ず「私も」と言うこの考え方を突破しなければならない。

 法を正す過程は飛躍的に進んでいる。宇宙も一刻も休まず膨張し、まるで日が出で、日が沈み、花が四季に咲くように時間はいままで人を待ったことがない。最近、師父は『最後になればなるほど精進すべき』という経文の中で「実は皆さん考えてみてください。今までの修煉者は一生を費やしてはじめて歩み終えるこの道のりでも、一刻も怠りませんでした。大法に済度される生命に与えられる果位を成就させようとする大法弟子は、修煉の中で最も利便な修煉法門があるのに、法を証明しながら修煉するというこの最も偉大な栄光が瞬く間に去っていく短い修煉の間に、なぜもっと精進せずにいられるのでしょうか?」とご指摘された。神になる道を歩いている修煉者として、法を正す時の大法弟子として、一生の短い時間内に、以前の人が一生、ひいては何世かかっても完成できなかった神聖なる事を完成しようとしている。この事自体は時間がとても緊迫して、この修煉過程における時間は千金万金に値する。その上、太鼓持ち・江氏の迫害が始まってから、大多数の人が修煉をやめた。一部の人は法を得た時間がとても遅く、江氏ごろつき集団に遅らされた時間を除くと、絶大多数の大法弟子には5年から8年、ひいてはさらに短い修煉時間しかない。もしこの5年から8年の中で、人が神になる道を歩み終えようとしたら、あなたは計算して見てください。時間は更に貴重ではないだろうか! だからあなたが「私も」、「私も」と言って、時間をむだにすることは、わたしたちには確かにできないことである!

 「時は金なり、金で時は買えない、金は失ったら探せるが、時は失ったら実に取り戻せない」。数千年以来、常人もみんな時間の大切さを知っていて、「今日のことは今日済ませる」ことを知っていた。わたしたちは修煉している人で、超常的な人であり、人が神になる道を歩んでいる人である。限られた生命の中の一部の時間内に、短い10年、20年の時間を取り出してこのような偉大なことをやり遂げようとしている。だから、さらに時間の大切さを知るべきである! 私たちは最初から「時は千金万金に値する」と知るべきであった。「私も」精進しないと言うのは正しいことではない。わたしたちは人が神になる道の中で圓満に至るまで、勇ましい獅子のように勇猛し、勇気を奮い起こして精進しなければならない。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/5/3/126698.html