日本明慧


修煉の中の「美しい」誤った道から抜け出る

 文/河南の大法弟子

 【明慧ネット2006年5月20日】この日、心を静めて《明慧週刊》の体得交流部分を読んでいると、文章の「執着を捨てる執着」と言う文字が思わず私の疑問を生みました。「執着を捨てる執着」? これは何の執着か?こんな執着心があるか?修煉者が執着を捨てるのが間違っているのか?どうして「執着を捨てる執着」ってあるのか?何度考えてもその答えが解りませんでした。

 午後の学法のとき、心の中に突然一つの門が開いたかのように、何か「執着を捨てる執着」?なるほど、これはまさに私が長期にわたり突破できなかったものでしょう。

 個人の修煉段階であろうが、正法修煉段階であろうが、私はずっと自分は内に向かって探すことにとても力量があり、執着を探す、執着を切り捨てる面でよく修煉できたと思い、ずっと自分はとても着実に修煉することを重視していると思っていました。

 99年7.20以後の正法修煉の中で、邪悪はとても荒れ狂っていましたが、私は大法をかたく信じ、嘘を見極めて戸惑わず、心性は着実な修煉の中で昇華し、環境は心性の向上の中で変わって来ました。多くの場合、一部の着実に修煉しない学習者を見ると、私はまだ彼らのために焦っても、しようがない……私はずっと多くの学習者は皆着実な修煉をしないと思っていました。私は自分が見間違ってないと信じており、心の中でも常に彼らの精進できないことに憂慮しました。これは修煉しているのですか?これは修煉者の状態ですか?彼らの結末はどうですか?どうやって彼らを助けるべきか私は知りません、全体的にこのようにゆがんでいる要素がとても強いと思っていても、私がそれを変えるのは無理です。仕方なく、私はそれを淡泊、淡泊に見るしかなく、自然にまかせて、周囲のすべてに動じないで、自分をよく修めて、できるだけ自分の道をよく歩くことにしました。多くの場合、私も自分の認識しているこのような全体的に所謂正しくない状態を変えようと思いましたが、しかし私自身もいつも執着を突破する難の中に、関を越える中に陥ったために、それを考える余裕がありませんでした。

 私は人の執着、人の各種観念を根本的に洞察できるのに、やはり修煉はこの上なく苦難に満ちていると思いました。一つ一つの心はすべて切り捨てるのが難しく、一つ一つの心はすべて苦しい関で、意志が少し弱くなると、あの一つ一つの関を乗り越えられず、正念が緩くなると「心から」執着を自分のものとしてします。私は、一つ一つの人心はすべて修煉中の大きな関で、一つ一つの心を切り捨てるたびにすべて「忍びがたきは忍びうる。おこないがたきも行いうる」という意志に頼るべきだとますます感じました。どうしてこんなに難しいのか?私は考えたことがありましたが、しかしそれは思っただけで、深く考える勇気がありませんでした。自分はいつも着実に修煉しているのに、どうしてまだこんなに難しいのか?正法修煉をして数年来、本当に難しい!自ら修煉の苦難を感じ取り、更に執着の本質をはっきり見分けることのできない学習者を見ると、私は更に彼らの修煉の苦しみを想像できず、彼らの大法に対しての堅く信じる程度も想像できませんでした。彼らを助けて認識を高めることは、どんなにむずかしいことでしょう。

 だから、それからの修煉の中で、私はすべての常人の矛盾を看破し、師父の按排したすべては私の執着を暴露するためで、師父は常人の形式を利用して私の執着を暴露し、私に執着を修めて切り捨てるようにさせました。それは矛盾を造ったすべての人が私を手伝って執着を探し、皆私が向上するように手伝い、私が修煉できるように手伝ってくれたのです。彼らが私の修煉、円満の道を開いてくれたのではないかと、私は思いました。私は本当に彼らに感謝し、本当に恨みも後悔もしないことをやり遂げました。私は、修煉はそんなに楽なことだと思い、この事に出会ったら、あ、これは私の何の執着を切り捨てればよいのだ、その事に出会ったら、あ、あれは私のあの人心を切り捨てればよいのだ、私は内に向かって探す楽しみを覚え、修煉者の楽しみを覚えました。矛盾は人の心を刺激しないと認めないと言いますが、しかし私はいつもとても速く悟りました。私は修煉者の一人としての幸福と楽しみを覚えましたが、これは生命の意義ですか?人になるのが目的ではない、返本帰真これが生命の本当の意義です!

 だんだんと、内に向かって探し、執着を切り捨てることで私は一つの機制を形成しました。どんなに大きい圧力も私の堅い修煉の心を動揺させることができないと思いました。数年来、邪悪はとても荒れ狂っていて、道を歩くのが難しかったが、しかし着実な修煉によって、私は巨大な難の中から抜け出すことができました。自分が大道からどんなに外れ、偏差と制限があるのか私は考えたことがありません。潜在意識の中で私のようにこんなに着実に修煉しているなら、どんな大きな偏差がありえるでしょうか?この問題は、考える必要もなく、数年の実践の中でいつも自分の道はとても正しいと思いました。

 しかし、今日、私は動揺し、はっきりと目覚め、分かったのです。数年来、ずっと自分はよく修めたと思っていたが、もとはずっと一つの誤った道に陥って出てこられなくなっていました。数年来、修煉の道から本当に外れて、出発点を間違い、出発点を間違って立ったなら、まだ外れてないと言えますか?このような誤った道に陥った最大の現われは、事が起きたときまず他人を思い付くのではない、先に他人のために考えるのではなく、自分の何の心を切り捨てるかを思い、ただ自分の執着心が切り捨てられたかだけに気を配り、本当に他人を思い、他人のために考えるのではありませんでした。

 この数年、修煉の出発点をどうやって自分の執着を切り捨てるのかに置き、他人によく接し、他人のために考える立場に立たずに、心の中では自分の修煉、向上を考えており、他人の感銘、衆生の済度ではありませんでした。何が自我の放下ですか?自分を放下することですが、私は、心の中ではすべて自分の向上でした。このように修め続ければ、永遠に修煉者の慈悲を修めることができません!修煉者は至る所ですべていい人を現すべきで、これは自分が言っているのではなく、法に基準があります。

 正法修煉の中で、このような誤った道から出て来られなく、また自分はとても理性で、他人は心の事をやると思っていました。心の中ではどうやって自分の心性を高めるか、どうやって変異的な観念を正すか、どうやって自分の心を清めるかを考えており、大法を第一位に置くのではなく、極度な危険にいる無数な衆生を第一位に置いていませんでした。本当の良い人、良い人より良い人として、他人が最も危険な境地にいるのを見て、私達は何をするべきですか?壊滅周辺にある宇宙の衆生が私達の一刻も早い救いを待ち望んでいるとき、私達は何をするべきですか?この上ない宇宙を造り出し、我々の生命を造り出した大法が迫害されているとき、私達は何をするべきですか?旧勢力がそんなに多いかつて師父の身内だった学習者と世間の人々を壊滅しているとき、私達は何をするべきですか?私達は他人のために考えるのではありませんか?私達は衆生の立場を思い付きましたか?常人社会の中で、ある人が川に落ちて溺死そうになったとき、私達はまず何を思うべきですか?人を助けることです。

 私は今分かりました。私がこんなに難しいと感じていたのはおかしくありません。私はずっと執着を切り捨てる過激な状態に陥って、旧勢力に隙に乗じられたのです。あなたは執着を切り捨てたいですか?あの旧勢力はあなたに沢山の関を按排して執着を切捨てらせるのです。あなたが喜んで、あなたが必要としているから、あなたをしっかり制御するのです。それは一方では絶えずあなたに執着を切り捨てる関を按配し、あなたに息を付くひまをなくし、法の実証に参与する精力をなくし、一方ではまたあなたの執着を強化し、あなたの意志を粉砕し、あなたの正念を崩れることを企んでいます。邪悪がどうしてあなたに邪魔をしかけたのか、それはそれが見たからです。あなたは自分を放下してない、自分のことしか考えてない、慈悲を修めてない、旧勢力があなたを迫害する、邪魔する最大の口実をつかんだのです。なぜ私はいつもずっと苦難に満ちった関を乗り越え、関を乗り越えることしか考えなかったのか、実は邪悪に隙に乗じられたのであって、ずっと邪悪が按排した関を乗り越えたのであり、だからあんなに難しかったのです。

 実は正法修煉は複雑なことではなく、努力して自分をよく修めると同時に衆生を救い済度することだと私は理解しました。私達は人を救う基点に立っており、執着を切り捨てる基点に立っているのではありません。私達には執着があり、修煉者としては切り捨てなければなりません。しかしこれが私達の目的になってはならず、私達の根本的な目的は人を救い、衆生を済度することです。

 認識が高まって、心は本当に楽になり、心の中はただ急いで大法に同化し、急いで衆生を救い済度することだけであり、あるのは学習者のために何ができるかの考えだけで、心の中で思っているのはすべて他人のために何をするのかのことです。

 今の段階の個人の体得であり、はっきり話ができなかったかも知れませんが、適当でないところはご指摘をお願いします。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/5/20/128182.html