日本明慧


内に向けて探して、自分をしっかり修め、全体を円容する  

 文/遼寧省鞍山大法弟子

 【明慧ネット2006年5月21日】私はずっと明慧に投稿したいと思っていたが、自分の正念が強くないため、観念に邪魔され途中でやめていた。今回同修の励ましと助けのもとで投稿を完成させた。自分にとって今回の投稿も修煉の過程である。これから自分がこの数年間いかに修煉し、内に向けて探し、自分を向上させたのかを体験交流したいと思っている。

 1、 同修を理解し、全体を円容する

 2004年前後、同修のパソコンが壊れ、システムを入れなおす必要があった。我々のところにはパソコンを知っている人が少なくて、同修に予約して何日もまつ必要があった。この同修の負担があまり大きいと感じた。この種の圧力は我々が犠牲を受けたくないことからきていた。そのときから自分がパソコンを勉強したいという一念が生じた。自分の念が正しかったせいか、師父が私に知恵をくださった。また同修の助けもあって、自分が早くパソコンのインストールができて、この同修の負担を軽くして、ほかの同修にも便利をもたらした。

 2、 真剣に同修を助け、全体として向上する

 パソコンの設定やほかのことで、私はある同修とよく会う。よくいっしょにいるので、この同修が、話ややり方に心を使わず、セキュリティにも注意していないため、ほかの同修に悪いイメージを持たれていた。彼女と交流している中で彼女の思想の中にあるよくない観念が隠されているのを感じた、私は彼女を助け観念を改めるべきだと思った。私はこれをする責任があると感じて、師父に加持を心からお願いした。翌日スーパーに行き、2本の水を買って同修の家に行った、着いてから私は「我々は法の中でよく浄化しよう、自分の不足を話してそれを取り除こう」と言った。この同修は私の励ましで、自分が世間をいろいろ傷つけたことで生じたよくない観念を泣きながら話した。そのとき、私は彼女の悲しみに動じず、私は師父の洪大な慈悲を感じた。私は、「あなただけではない、我々すべての同修はこのような全身の業力を法の中で絶えず浄化し、絶えず正しくなるのではないか? 師父は我々のためにどんなに耐えてこられたのか? 我々は法のなかで精進していないにもかかわらず、いろんな口実で自分の執着を隠している」というと、彼女は私のこの話をきいて、自分の不足を認識できた。それから大法を証明する仕事の中で法に責任をもち、同修に責任をもつ概念をもつようになった。

 3、 修は己にありて、功は師にあり

 我々のところでよくプリンタが壊れた。元の機械は構造が簡単で修理しやすかったが、電子技術の発達により機器がだんだん複雑になってきた。ある同修が「プリンタが壊れた」と言うので、私は「私の家にもってきて、みて見よう」と言った。しかし、機械をばらしたらあまり複雑すぎて、一日かかっても直らなかった。同修にだめだったと伝えると、「外にもっていって修理しよう」といわれ、「あなたは年をとっているので、だめです」と私がいうと、もう一人の同修は「じゃ、私がいこうか?」と言った。彼女はあまり外に出ていなかったので、「だめです」といった、このとき、私は自分に向かって聞いてみた、できるはずなのに、なぜ修理できなかったのか? 元が簡単で、今は複雑になっている、しかし私はまだ昔の次元にいる、自分が向上するときがきた。それを悟ると、私はいった「これは私が原因で、あなたたちは心配しなくていい」といい、家に帰って、修理を始めた。夜5時から10時までばらして原因を探したが、何回やっても原因がわからなかった。翌日引き続き修理し、何回繰り返しても原因が見つからなかった。3日目修理のとき前の2日より落ち着いてきて、急がずあせらず、このとき、頭の中で歯車がずれたか?と浮かんできた、歯車を正してから、電源を入れると機械がきれいな音を出して直った。心を感じて思わずこぼした「修は己にありて、功は師にあり!」。

 以上は自分が法を正す修煉の中で内に向けて探す体験で、書き下ろして同修と交流したいと思っている、不足のところがあれば慈悲なる指摘をお願いします。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/5/21/128347.html