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今度私は真に忍をやり遂げた

 【明慧ネット2006年7月5日】師父は「忍とは何か」(『精進要旨』)の中でこう講じておられる。「忍は心性を高める鍵である。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍であり、まったく怒り恨むこと起こらず、不平に思わぬことこそが修煉者の忍である」。

 長期に亘り、私はこの「忍」に対して実践の中でずっと常人の我慢の状態に留まっていて、せっかちな性質を克服できないのが苦痛で堪らなかった。9年余り修煉して、怒り恨みを我慢できなかったため、同修や、家族との間に多くの矛盾と隔たりを生じた。法理から不足を認識し、せっかちな性質を克服しようと決心もした。問題に遭う時に怒ってはいけない、心を穏やかに保って、言葉は絶対に不遜しないと自分に言い聞かせた。しかし、毎回ほんの少しだけはよくなるが、たとえその時我慢できても、心の中はやはり放下できず、甚だしきに至っては暫く経つと心がやはりいらいらしてくる。平然として、怨も恨も生じない忍は、本当に私にはできようもなくがっかりした。

  だが今度、難関を突破する中で、私は本当に「まったく怒り恨むこと起こらず」の忍はどのような状態かを体得できた。再び先天の自我と後天に形成した各種の観念、執着とは何かをはっきり見分けることができ、明確に認識できた。師父は『転法輪』の第4講の中でこう語っておられる、「われわれが失うものは実際、悪いものにほかならないのですが、それは何なのでしょうか? ほかならぬ業力なのですが、それは人間のさまざまな執着心と一体の関係にあるのです」。この部分の意味を自ら体験して、更に深い体得を得た。

 数日前、同修が私の問題点を指摘してくれたが、事実に符合していないと思って、最初暫く我慢したが、その後弁解を始め、釈明すればするほど怒りを感じて、最後にあまりに不満でつらくなり、激しく泣いた。それは本当に憤慨で、不公平な涙だった。その矛盾は心肺を衝撃するつらさを乗り越えにくかった。それからの何日間は、法を猛勉強した。しかし、法を勉強するときは心が落ち着くが、本を置いてしばらく経つと、あのつらい思い、不平と無念な苦痛が再び襲ってきて、心が千路に乱れた。

 その日の午後、私はまたしばらく泣いてしまい、突然この状態が正しくないと気がついた。私は苦痛になりたくないのに、どうして苦痛はいつも私に付き纏うのか、この私を苦痛にさせるものを取り除こう、師父は私たちが神通力を使うのは必要だと語られたのではないか。そこで私は座って、発正念をすると、半時間後、とても楽になった。家族(同修)は私に、まだ怒っているのかと聞くので、私は大声で「もう怒らないよ、そのものを取り除いたから」と言った。その後の何日間も私は全然怒らなかった。心理状態はとてもよくて、普段のでかい声と乱暴な態度がなくなり、急にやさしくなった。自分でもびっくりした。

 続いてすぐに試練がやってきた。夫の兄、姉が電話をかけてきて、姑が病気になったと言った。夫の家では私達の夫婦二人と姑3人が修煉している。ふだん姑は子供たちに真相をあまり伝えていない。仮に伝えても中途半端で伝えられないと感じたときにすぐに諦めてしまったから、彼らも修煉に対して正しく理解していなかった。ただ姑が健康なので、子供たちが見ていて、何も言わなかったが、今度血圧は180になり、彼らにしてみればとんでもないことで、無理やりに姑を病院へ送った。医者は入院を勧め、姑はどうしても退院しようとした。しかしその理由をちゃんと子供たちに説明しなかった。子供達が焦っても怒っても仕方なく、姑を家に連れて帰ったが、その怒りを私達夫婦二人にぶつけてきた。もちろん、私は分かっている、実際の相手は私なのだ。彼らは私が姑の背後の支持者だと思っている。なぜかというと、彼らが知っているように、私は修煉を堅持するため迫害されて仕事も失ったが平気で、真相を伝えるため連行され労働教養所にまで入れられたが気にせず、出てきて更に精進した。だから姑がこのようになったのはまさに私のせいだと、彼らは思っている。

 夫の姉が再三姑に薬を勧め、全部拒否され、姉はその怒りを私にどなりつけ、ののしって、本当に聞き苦しい言葉ばかりだった。でも、私はほんの少しも怒らず、相変わらず笑顔で、本当に不思議だった。どうしたの、なぜ怒らないのと思ったが、突然、自分を怒らせるものは真に私が取り除いたから怒らなくなったのだと悟った。今やっと分かった、なぜ以前怒ったのか、それはそのよくない物質を自分だと認め、無意識に「そのよくない心が自分だと」と認めた上でそれを抑制するから、もちろん取り除きにくかった。今そのよくない物質を取り除いて、そのよくない物質と一体関係の心も取り除いたから、今度こそまぎれもなく怒り恨みがなく、不平も感じない心理状態を体験できた。つまり平然として、度量が大きい闊達の状態である。

 相手の怒りを我慢できた時、師父はすべての怨縁を善解してくださった。彼女は矛先を私に向けたのはその理由がある。かつて彼らに真相を伝えた時、私が我慢できなくて、夫の家族の間に矛盾が生じた。今度彼らの言行を寛容で理解し、善で扱ったから、善解を得た。内心本当に師父に感謝した。師父は一回一回私に高まる機会を与え、機会を通して法理を悟らせ、昇華させてくださって、本当に苦心を使い尽くしたのだ。師父の慈悲深い救い済度に感謝する。

 この経験を書き出して、同修と交流したいのは、今まで修煉してきて、私達は何が先天の自我で、何かが後天に形成した観念と人心かを理知ではっきり見分けなければならない。見分けることさえできれば、一つ一つの難関を更に速く乗り越えられる。『転法輪』の最後に師父は教えてくださった、「功法を修煉すること自体はそれほど難しくはありませんし、次元を向上させること自体にはそれほど難しいところはないのですが、人間の心を放下できないから難しいと言うわけです」。私達は修煉するのはほかではなく、人心を修煉することなので、ただ何が人心なのか、どれが人心なのかを分からなければならない。分かれば取り除きやすくなるし、取り除けるので、人心を放下することができるのだ。師父は『道法』の中でこう語られた、「長きにわたって大法の中にいる衆生、特に弟子たちは心性を向上させる上で、法に対してずっと異なる次元での誤解がある。苦難がやって来るたび、本性の面から認識できず、完全に人間の面から理解しているため、魔はこれを利用し、尽きることなく邪魔と破壊をしているので、学習者は長期にわたり苦難の中に陥っているのだ」。大法弟子は、邪悪の迫害の中でこの数年を歩んできて、私たちは今本当に事に遭う時に本性の面から、つまり神の一面から問題を認識しなければならない。神の一面から扱う時、何もかも放下できる。人間のすべてを放下できれば、本当に師父がおっしゃった通りに「柳暗花明又一村というように、眼前に新たな世界が開ける」。

 浅い認識であるが、慈悲のご指摘を願います。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/7/5/132198.html