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私達は師父に対して一体どれだけ正しく信じているのか


 文/河南省大法弟子

 【明慧ネット2006年7月8日】私たちは通常、常人の観念と修煉の次元の中で、自分の観念に合わない、あるいはあまり信用できないと思う事に対して、往々にして疑う心が生じ、大法に対しても、同じようなことがおこる。常人の思いで大法を測ってしまい、よく「こうではないか」、「ありえるのか」などの正しくない念が生じる。師父の新しい説法が出るたび、法を正す形勢に追いつけないため、同じく常人の観念に阻まれ、つい法を正す道から離れてしまった。

 修煉とはつまり「悟り」の問題で、「信じる」ことであり、完全に徹底的に正真正銘に師父と法を信じることができるか否かは、直接大法弟子の正念に関わるものだ。「決意を堅めることができるかどうか、最後まで修煉を続けるかどうかが最も肝心なことです」(『スイス法会での説法』)と、師父は言われた。しかしどれだけの学習者が目の前の形に害され前へ進もうとしないだろうか。甚だしきに至ってはある学習者は師父のひと言を理解できないため、修煉しなくなった。

 99年から邪悪が大法を迫害した後、どれだけの学習者がこのような、そのような原因で大法を放棄したことか! それは法に対してやはり根本的にかたく信じていないためだ。師父はかつて一つの例を挙げられたことがある。「昔、ある道を修めている人が町を歩きながらお酒を飲んでいました。突然ある人を見かけました。この人はまさに自分が探しており、道を修めることのできる人です。それで、彼はこの人を済度し、弟子にしようとしました。

 『私と一緒に道を修めにいきませんか?』とその人に聞きました。その人は悟性と根基がなかなか良いので、『行きたいです』と答えました。『では、私についてくる勇気がありますか?』、『あります』。『私がどこへ行ってもついてくる勇気がありますか?』、『あります』。『でしたら、私についてきてください』と彼は言って、手のひらほどの徳利を地面に置いて、蓋を開き、瞬時に徳利の中に飛び込みました。彼は師父が中に飛び込んだのを見て、師父のまねをして徳利に入りました。見物をしている人々は皆、徳利の口から中を覗きました。覗いてみたら中は広々とした世界で、しかも非常に広いのです」。(『米国西部法会での説法』)

 また、今日まで修煉できた人は、いずれも大法を根本的に信じているからではないか。そんなにかたく信じていない人もいて、ついに邪悪に隙に乗じられ、法を正す道に影響をもたらしてしまった。

 もし邪悪のいかなる手配にも協力せず、正念を持って邪悪を制止し、正々堂々と法を実証するなら、邪悪は迫害する勇気がないと、師父はおっしゃった。しかし悪人に直面する時、悪人の強大なうわべを見て、往々にして私たちは心細くなり、悪人と「衝突」をしたくないと思い、真相さえも伝える勇気もなくなって、消極的な状態に落ち込む。本来自分を守るためだが、かえってさらに大きな迫害を受けてしまうケースが少なくない。大法弟子が真相を伝えるのは実は衆生を救い済度するためであり、誰もまず一つの生命であるので、中共の嘘に騙された衆生に対して、彼らを救い済度する願望に基づいて真相を伝えることなので、常人が「闘う」こととは違うのだ。

 また病業が現れた同修について、特に病業がわりに大きい同修は、自分が本当に神様のように、如何なる病業もまったく気にせず、心を徹底的に放下し、堂々として、怨もなく執着もなく、自分の行方をすべて師父に任せることができたのだろう。往々にして「不治の病」にかかった同修は、どうしても医薬の手段をとらないと落ち着かない、病院へ行って、結局「不治の病」と診断されてしまう。やはり法に対してかたく信じていないからだ。 

 私達は師父が自ら救い済度する弟子であるので、常人の病院は言うまでもなく、さらなる宇宙のいかなる神にしても、師父が自ら済度している弟子の修煉の道を動かす勇気がないのに、師父を信じず、誰を信じるのだろう。法をかたく信じることができないから、自分に大きな魔難をもたらしたのではないか。

 また煉功は疲労を取り除き、エネルギーを補充する最もよい方法であると、師父は説かれたことがある。しかし往々にして私を含む多くの人は、煉功を重視していない。とても疲れる時、やはり眠ることしか考えない。さもなくば、こらえられないと感じる。しかし毎日煉功を続けている同修を見ると、毎日3、4時間しか寝ていないのに、かえってとても元気で大法を実証することをやっている。私達は煉功が本体を変える巨大な作用があることを本当に信じているのだろうか? 

 更に、「天安門自殺」の偽りの事件が発生した後、『共産党についての九つの評論』が出版された後、中共の秘密収容所事件が公表した後、どれだけの学習者が自分の観念に障害されて大法から離れただろうか。甚だしきに至ってはある人は邪な悟りをして、魔性を生じたのに、まだ自分が高く修煉したと感じた。このすべては、師父は最初から説いたことがあり、しかし、私たちはどのぐらい信じているか、どのぐらい理解できたのだろうか。 

 法に対して根本的に信じるか否かの問題はずっと修煉そのものであり、「法に対して認識できるか否か」(『精進要旨』)の試練もずっと伴っているので、一歩一歩はとても肝心で、如何なる情況でも正念を保ち、師父と法を信じ、法を実証する一歩一歩を良く歩んでいきましょう。

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/7/8/132466.html