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湖北省襄樊市の大法弟子の鄒遠涛さんは迫害により死亡

 【明慧ネット2006年7月18日】湖北省襄樊市の大法弟子・鄒遠涛さんは何回も悪辣な警官に拉致されて、人間性を失った残酷な迫害を受け、強制的に精神病治療用の薬を注射され、仕方なく路頭に迷っていた。2003年10月に再び沙洋強制労働収容所に拉致され、体は極度の蹂躪を受け、2006年6月24日に冤罪が晴れないままこの世を去った。

 鄒遠涛さん(34歳、大学卒業)は湖北省襄樊市航空宇宙工業部609研究所の従業員で、1998年11月末から法輪功の修煉を始めた。1999年7・20以来、法律に基づいて、陳情したり、煉功したり、真相資料を配ったが、これらが原因で何回も邪悪な江沢民グループに迫害されて、不法に留置場、精神病院、強制労働収容所へ送られて残酷に虐待された。

 2001年7月25日の夜、鄒遠涛さんは襄樊のとある修煉者の家を訪れたところ、悪人に告発され、その夜に現地の派出所から襄城支局の留置場に非合法的に護送されて監禁された。翌日の午前、隆中派出所の指導員・孫彦軍と警官・楊衛により強制的に襄樊市七里店強制労働収容所の洗脳班に送られて、修煉を放棄するように強要された。

 鄒遠涛さんは節操をかたく守り、屈服せず、大声で「法輪大法は素晴らしい」と叫んだりした。すると強制労働収容所の囚人に一階から三階の部屋に引っ張られていき、めった打ちにされた。大隊の班長・王志勇、105室の組長・李鵬(27歳)とその他の労働教養されていた囚人・林祥雲(23歳)、劉偉、李棟虎(20歳)、張震(23歳)などは交替で鄒遠涛さんをめった打ちにした。皮靴で蹴ったり、髪の毛をぎゅっと掴んでひざで突然胸部を蹴ったり、両腕をねじって後方に引っ張り上げたままの状態にさせるとか、太さが数寸のゴム管で背中を容赦なくたたいたり、吸い殻で足の指にやけどをさせたり、腰掛で手足を殴ったりして、迫害は午前10時すぎから夕食の時間まで続いた。鄒遠涛さんは殴られて数箇所も内傷を受け、悲惨で見ていられなかった。人間性を失った暴徒らは夜にはまた鄒遠涛さんに立つ罰を与え、眠らせなかった。

 鄒遠涛さんは強制労働収容所で前後二回断食で迫害に抗議した。断食抗議の間、強制労働収容所の幹部らに強制的に食物注入を強要されて、5、6人の囚人が鄒遠涛さんの手足をぐっと引っ張り、床に押しつけ、その上に座った。前から腰掛で脚を押し、後ろから頭を押し、鼻を挟み、竹の棒で歯をこじ開け、コーラーのビンの三分の一を口に無理やり詰め込んだ。鄒遠涛さんはほとんど窒息し、咽喉が押し合わされて破れ、血を吐いた。

 8月13日に鄒遠涛さんは二回目の断食抗議を行った。断食して五日目、強制労働収容所は鄒遠涛さんに労働に参加することを強要した。鄒遠涛さんは本当に体を支えられることができず、地面に倒れた。班長の王志勇、強制労働収容所の所長・朱××は依然として見逃さず、鄒遠涛さんを引っ張って太陽の下に長時間放置した。鄒遠涛さんがもうすぐ虚脱するところで、やっと部屋に引いて帰った。強制労働収容所の所長・石××は「あなたたちを殺すのは蟻一匹を踏むようなもんだ。断食しても仕事をしないといかん。疲れて死んでも自殺と扱う!」と言いふらした。

 六日目、鄒遠涛さんはすでに無力でベッドから降りることができなかった。班長・王志勇、組長・李鵬と囚人・林祥雲は強制的に鄒遠涛さんを階段に引き降ろして、列に入らせようとした。その結果、鄒遠涛さんは運動場で気を失って倒れたが、面倒を見てくれる人は誰もいなかった。夕食が終わってから、やっと彼はわきに挟まれて部屋に帰った。七日目、鄒遠涛さんは気息奄々となり、体は深刻な脱水状態に陥った。強制労働収容所は責任を負うことを恐れて、鄒遠涛さんの家族に迎えてもらった。

 迫害されないように鄒遠涛さんは再び路頭に迷うようになった。2003年10月に再び拉致され、非合法に強制労働2年を課され、沙洋強制労働収容所へ監禁されて迫害された。邪悪の迫害に協力しなかったため、ずっと厳しく管理され、九大隊の看守・余邦青に電撃棒と革のベルトで殴られた。沙洋強制労働収容所(もとの三大隊)はもっぱら大法弟子を迫害する大隊だった。悪辣な警官は大法弟子を軍人のようにしゃがむように強要し、大法弟子に修煉を放棄するように強制した。そうしないと電撃棒で電撃し、また麻薬常習犯、刑事犯らを扇動して、気の向くままに大法弟子をののしったり、殴ったり、少しでも従わないと、更に厳しい体罰を与えた。悪事を働くものらは、これは看守幹部らにやれと言われたといった。強制労働収容所は大法弟子を、報酬を払わない金稼ぎの機器として扱い、また大法弟子の家族から仕送りされた汗水たらして稼いだ金を搾取した。1元で数分する電話も、沙洋強制労働収容所では2元で1分かけられる。

 鄒遠涛さんは沙洋強制労働収容所で体が極度に壊され、2005年末に家に戻ったのち、回復できず、病的状態が現れ、2006年6月24日に冤罪が晴れないままこの世を去った。

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/7/18/133327.html