日本明慧
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安逸を求める心をなくす


 文/大連の大法弟子

 【明慧ネット2006年5月7日】最近よく同修からこういう話を聞きます。私は努力して自分を見つめ、行くべきところも行った。なぜ面倒が絶えないのか? 行間の意味として、私がやるべきことを全部やった。残りは師父が処理すべきで、なぜ師父がやってくれないのか? ということです。これに対して私個人の考えを述べて、同修と交流したいと思います。

 修煉は自分を修めるものだと思います。他人のために修煉するのではなく、師父のために修煉するでもない、だからいつも外の要素に頼ってはいけません。ある同修は暇があると自分を見つめるのがすきで、私にはまだどんな心があるのか? 私はまだ何に執着しているのか? と考えます。しかし本当に面倒がきたとき、彼はかえって自分を見つめなくなりました。見えているのは全部他人の不足で、甚だしきに至っては師父や大法に対して愚痴を言うのです。たとえ口で言わなくても、言葉の中で自然に現れてきました。「大法を修煉した以上、こんなはずではなかった」。では、どんなことがあればいいのですか? 楽しいことばかりで、楽に功が伸びて、修煉ができますか? 修煉だから災難が多くなったというのではなく、少なくとも正しく接するべきだといっています。

 また、ある同修は求める心を捨てないで、彼は功能や名利を求めるのではなく、彼は安逸を求めています。何があってもすぐ師父を頼ってしまいます。物を無くしたら師父に頼み、体を痛めたら師父に頼みます。師父がこう言われたたはずです、「後顧の憂いもなくなり、厄介なことも全部なくなれば、何をもって修煉するのでしょうか? 気分よく楽に修煉しようとでも考えているのですか? そんなことがありえますか? それは常人の立場で考えたことに過ぎません。」(『転法輪』)

 私個人の体験からいうと、自分の執着を見つけることは難しくありません。しかし執着を取り除くのは容易ではありません。修煉の中で、自分の体験として、自分が気分よくないとき、このことの詳細は関係なく、自分を気分悪くしたその心がすなわち自分の執着です。なぜ気分よくなくなったのでしょうか? 自分の常人の心をさわったのではありませんか? もし気にしなければ、そのような心がなければ、気分を害することがあるのでしょうか? ある同修は自分のことをいうのが好きで、これが難しい、あれが難しいといいます。その行間の意味として、私が精進していないのではなく、いろいろなことがあまりにも難しすぎるということです。本当にそうですか?「執着を放下して軽舟快(はやし)、人心凡重なれば洋を過ぐること難し」(『洪吟二・心自ずから明らか』)と師父はすでに私たちに教えてくださいました。

 監獄で迫害されたとき、ある道を誤った人の言葉が私に強い印象を与えました。彼は「大法を修煉すれば福があると師父は言ったのに、なぜ私は監獄にいるの?」と言った。私は数日間心を痛め、覚者が人を済度するのがいかに難しいのかを実感しました。人は現実の中での小さな利益を放せなくて、師父が教えているのは法であって、常人の中でいかによい生活をするのを説いているわけではありません。人が常人の中で苦しみを味わい、受難し、その中で業力の転化、心性の向上があり、これが生命の永遠の福ではないでしょうか?まして、もし大法弟子の修煉状態が法の要求に追いついていれば、1999年のとき迫害が始められないし、こんなに長くは続かないでしょう。

 魔難の中で、私もよくできなかったときがあります。しかし、私はひとつのことを信じている。葛藤は一時的なもので、修煉は必ず成就でき、法を正すことが必ずできます。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/5/7/127048.html