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《米国首都法会での説法》を読んで


 文/北京の大法弟子

 【明慧ネット2006年8月3日】師父がワシントンDCで説法をされたことを知り、とても感激し、法会に参加できる同修がとてもうらやましくなり、師父の説法が発表されるのを心待ちにしていました。師父の『米国首都法会での説法』を読み、心が急に開け、私たちの歩む大道無形の修煉の道は前代未聞で、これより偉大で重要なものはないということが改めて分かりました。師父の洪大な慈悲も感じました。私たちがこの偉大な時代に生まれ、大法の修煉の一員でいられることは、なんと幸運なことでしょう!本当にこの千載一遇の歴史的な縁をこの上なく大切にすべきです!

 こんなに長い間修煉しているけれど、いまだに気づかない心性上の問題があります。以前、師父の新しい経文が発表されるたびに、私はある新しく不思議なものを求める気持ちでそれを学んでいました。宇宙での法を正す進展はどうなっているのか、宇宙の仕組みについての説法はないだろうか、法を正す残された時間についての新しい説法はないだろうかなどと、人の心に執着して法を学んでいました。このようにしてどうして法を理解することが出来るのでしょう。何度学んでも師父がおっしゃったことが分かりませんでした。思い返してみると、これは本当に深刻な問題でした。

 今見てみると、師父の毎回の説法はみなそれぞれの問題に焦点を当てておられます。すべて、大法弟子に普遍して存在する問題に対して法を説かれています。言い換えれば、私たち弟子一人ひとりの心性の問題に対して法を説かれているのです。

 修煉の中でのよくない思想と行為についても、私は認識が足りませんでした。自分はすでに十年間修練しているのに、なぜいまだにこんなによくない思想と行為があるのだろう? こう思ったとき、多かれ少なかれ大法に対する疑いがあり、正念が足りませんでした。外来の素因だろうが、またはよくない思想観念だろうが、私をある程度動揺させるということは、私が法をしっかり学んでおらず、法理を明確に理解していなかったということでした。師父はこうおっしゃいました。「実はこれは間違った認識であり、大法弟子の修煉形式について根本から理解できなかったことによるものです」

 私にはある問題があります。何かトラブルに遭遇したときにどうしてもそれを外に押し出し、自分の内側を探そうとしないのです。このことは『転法輪』の中にとっくの昔から書かれていて、師父も何度も説法の中で強調されていたのですが、私はこれを重視できませんでした。何かトラブルに遭遇するといつもほかの人のせいにし、責任をほかの人に押し付けました。他人の間違いを探し、自分をきれいに飾りました。この問題において、私はまったく修めていなかったといえるでしょう。

 大法弟子として、無条件に内側を探すことは私たちの法宝であり、法の実証および衆生を救うことの要でもあります。師父はおっしゃいました。「いかなる問題に遭っても、このようにすることができれば、少なくともあなたは問題を解決する道を見つけることができます。そうでなければ、どのように解決するのでしょうか? 突っ張った状態で、解決したいと思えば思うほど解決できません。実はあなたはその心をずっと放下できず、突っ張っていて、どうしても誰が是か、誰が非かを究明したいと思い、自分に間違いがあっても、相手の間違いを探し出そうとしています。それでは、問題を解決することができません」

 『米国首都法会での説法』を読んで、私がもっとも感じたことは、「無条件に内に向かって探す」という法宝をしっかりと心に刻まなければならないということです。このことを同修と分かち合いたいと思います。

 個人の悟りです。不適切なところがありましたらどうぞご指摘ください。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/8/3/134671.html