日本明慧
■印刷版   

若い弟子はどのように「情」を突破するのか


 文/北京大法弟子

 【明慧ネット2006年6月9日】大学を卒業してから、私は一人の女の子と出会いました。その時、私は精進している状態ではなかったため、彼女にラブレターを書きました。それから、「情」が私を妨害するようになり、私は非常に辛く感じていました。

 妨害がひどい時、私は本当にこれ以上ないつらさを感じ、夜眠れないこともありました。

 しかも、私はよくないことだと知りながら、人間として絶対にやるべきではない、きわめて恥ずかしいことをしてしまい、大法に泥を塗ってしまいました。今考えてみると、本当にお恥ずかしい限りです。

 今、私はほぼ情による妨害を受けなくなりました。それで、自分の体験を書き、私と同じような問題を持つ同修にぜひ見てもらいたいと思いました。

 まず重要なのは、われわれは「情」に身を任せてはいけないと思います。また、常に頭をはっきりさせないといけません。一つ一つの思惟の中から、どれが本当の自分なのか、どれが後天に形成した観念なのかを冷静に区別すべきです。もし、後天に形成した観念であれば、必ずこれを認識し、正念で取り除いていくべきです。もし、常に自己の頭に浮かんでくる思惟をチェックできるならば、ある一定の期間(だいたい一、二日間)が経てば、かなりの効果が現れるのです。

 二つ目は、常人の心を放棄しなければならないことと常人の心で問題を考えてはいけないことです。私が最も深く「情」に陥っていた時、完全に常人の一面で問題を考えていました。私に対する彼女の態度、或いは彼女の行為は実に旧勢力が私を堕ちさせるためにわざと用意したものだ、ということに全く気付かなかったのです。あなたが「情」に執着しているならば、あなたが一層執着するように、旧勢力は彼女にいろんなことをさせるのです。したがって、絶対に常人の心で物事を考えてはならないし、常人に動揺させられてはいけないのです。それに、自分が大法弟子であることを常に念頭において、強い正念を持つことが非常に重要です。また、「妨害」や「トラブル」が現れたということは、情に対する執着を取り除く為に、心性の向上のために設けられたもので、心を修める最も良いチャンスであると認識すべきです。だからこそ、よりよく自分の心性を制御しなければならないと思います。

 三つ目は、「情」に執着することは実に「私欲・私利」の現れであるということを認識すべきです。相手に断わられたときは、非常につらくなります。では、なぜでしょうか?これは、まさに「私欲・私利」が傷つけられたからです。人間は自己中心的です。なぜ相手はあなたの誘いを断わったのでしょうか?それは相手があなたのことを認めていない、あなたがよくないと考えていたからです。これによって、私利の心が大きく揺さぶられて、つらく悔しく感じたのです。もし、自分のことに関して、常人がいかに評価するかを全く気にしないなら、「辛い」とか、「悔しい」とかの反応は現れないでしょう。だから、根本的には自分の「私利心」を取り除かれないからなのです。

 人は、人間社会における「幸せ」や「すばらしい生活」を追求するために、男女間の情に執着してしまうのです。私もそうでした。つまり、世の中にある全ての物事や情や名利をまだ棄て切っていないということです。これらの、いわゆる「すばらしい生活」、「幸せ」というのは、法の基準で量ってみると、果たして真の「幸せ」でなのでしょうか?答えは、もちろん「いいえ」です。大法弟子としてわれわれの目標は何なのでしょうか?これらの執着を放棄すべきではありませんか?

 また同時に、私たちはまず自分に対して自信を持たなければなりません。自分が必ず情への執着を放棄できると信じなければなりません。そして、自信を持たずに、執着が放棄できないという正しくないものを自己暗示してはいけません。執着を放棄できないと常に心配して落ち込むのも一種の執着で、「恐れる心」です。これが生じれば、やはり求めることとなり、「情」がまた入ってしまうのです。

 もし、あなたが「情」に深く陥っていれば、自分の正念だけですぐ突破し難いと感じるかもしれません。ならば、注意力を移すことで、何も考えないで精進して大法弟子がやるべき三つのことをしっかりとやり遂げることに努めてください。そうすれば、あなたは、「情」は自然と放棄されることに気付くに違いありません。「情」に妨害されたからと言って、さらに三つのことに影響を与えてはいけません。つらくても、難しくても、執着を放棄し難くても、私たちは困難を克服して、三つのことをよりよくやり遂げていくべきです。

 それに、われわれは普段社会活動において常人との関係をうまく保持すべきです。私たちに「魔難」を与えてくれた彼或いは彼女には、やはり慈悲心を持って、「善」の心で対応していかなければなりません。師父は『2006年カナダ説法』の中で、「あなたが接触する職場の環境、家庭の環境はいずれも、あなたの修煉環境であり、あなたが歩まなければならない道であり、必ず対処し、しかも正しく対処しなければならないことで、どのこともいい加減にしてはいけません。最終的に歩み終わったら、師父が皆さんのために按排したこの道を、皆さんはどのように歩んできたのでしょうか? このすべては最後に、見ないといけません。修煉過程の中のこのすべても見なければなりません。ですから、いかなることも軽視してはいけません」とおっしゃいました。私たちは彼或いは彼女と正しい人間関係を築くべきで、夫婦になれなくても、嫌うとか憎むとかという嫌な気持ちになってはなりません。そして、大法弟子として私たちは常に慈悲心を持ち、善の心で彼らを感化し、常人に大法弟子の慈悲と忍を実感させていくべきです。これができるなら、これも法を実証することになる、と私は思います。

 それでも、「情」がまだ私たちを妨害するなら、それはやはり法をしっかりと勉強できていないということだと思います。なぜなら、法理上ではっきりと認識できたら、自然に任せることや「因縁」は天に定めている理が分かるようになります。したがって、常人の心が動かなくなります。学法を通じて、私たちの生命は大法によって浄化されることができるから、常人の「情」も自然に放棄することができます。

 私は男女の「情」にかなり妨害されました。以上は私の体験です、同修の皆さんと交流したいと思いました。もし、不足なところがあれば、どうぞご指摘下さい。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/6/9/129872.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/6/28/74877.html