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4ヶ月半の迫害によって私の体重は87.5キロから35キロまで下がる

 【明慧ネットの2006年5月29日】普通の女性が、ただ法輪功を修煉し、信仰を放棄することを拒絶しただけで、一連の残酷な拷問に遭っていた。凶悪な警察に3日2夜両足を地面から離れて、縛られてつるされ、凶悪な医者に有毒な針で注射され……体重87.5キロの彼女は迫害されて35キロになってしまった。彼女の身内も免れることができず、凶悪な警察に体にお湯を浴びせられた。以下はこの法輪功学習者が、自分が迫害された経歴を述べたことだ。

 私は綏化の法輪功学習者で、1995年に法を得て修煉してから、心身とも受益しました。江氏が法輪功を迫害した後で、私は真相を言い、うそを暴き出しました。2001年3月8日、私と同修が大連で佳木斯行きの汽車に乗った時、同修は汽車で大法の本を読んでいて、凶悪な警察に発見され、私達は連行されました。

 次の日、ハルビン駅に着いて、凶悪な警察が私達をハルビン駅派出所に渡して、ハルビン駅派出所はハルビン市の610に私達を送り届けた。610ボスの潭元松は私の870元のお金と2枚の電話カードを探して出し、私にどんなことを聞いても私は何も言わなかった。潭元松は7、8人の凶悪な警察を呼んできて、小指のような太い縄で私の二本の腕を縛り、私を四角な腰掛けに立たせて、四角な腰掛けを蹴り倒して、私を地面から1メートル離れてつるした。私の体重は87.5キロで、3日2夜つるして、腕は黒くなり、一面アワ粒のようなできものができた。その時に同修は私の名前を言い出した。

 3月16日に地元の派出所は私を護送して帰って、そして留置所で拘禁し、私の家財を没収した。その時私はすでに障害者になって、生活さえ自分で処理することが出来なかった。3月23日午後4時に私がショックを起こしたため、警察は私を家に返すしかなかった。私が家に帰った後に警察はいつもかき乱しにきて、私はしかたなく路頭に迷うしかなかった。

 2002年4月16日、私の夫(常人)が北京で商売をするため、私達は豊台で部屋を借りて、4月20日晩の7、8時に北京豊台区の公安支局はまた私と主人を連行した。主人に私が北京で何をするか聞いたが、主人は答えなかった。彼らは私を打って3回意識が不明になり、主人の体にお湯を浴びせ、右足を打ち壊した。今までも主人の体にまた傷あとが残り、歩く時も不自由になっている。

 2002年4月24日夜中、凶悪な警察はまた私を北京の法治訓練センターに送り強行に「転向」させた。12人が繰り返し罵倒して私を眠らせず、最後に私は彼らに私を「転向」させることはできないことを教えた。

 それからハルビン市国保7所の凶悪な警察の肖黒子は、隊を率いて北京からハルビン市に私を連行した。汽車を降りてから、黒い布を頭を被せ、市の第1留置場に拘禁した。そこに着いてから7カ所から動員された刑事1、2隊からの凶悪な警察、劉偉、李継、張淑芹(女性)などが私を迫害した。太さ1寸のプラスチックのパイプ(小さく白い竜)で私を殴り、意識不明になるまで殴った後に、水をかけて目を覚まさせて、また殴った。今でも、体にまた傷跡が残っている。劉偉は不法に私の千元のお金、リュックサック、多くの衣服と身の回り品を没収した。

 私がまだ「転向しない」ため、2002年6月に万家労働教養所の病院に送り届けられて引き続き迫害された。院長の名前ははっきり覚えていないが、私を倒して殴った。王という苗字の女性看護婦長(50歳余り)はとても邪悪で、私に3回有毒な針を打った。終えた後に一回は眠った。何日間か眠って何も知らない。一回は話をすることはできなかった。

 ある日、一人の男性学習者が食物を注入されたため、死亡した。翌日彼らは翌日この人の家族に肺結核で亡くなったことを教えた。彼らが私に食物を注入する時、「彼のようにあなたに注入して死なせてやろう」と言った。

 2002年8月7日に私はまたハルビン市の公安病院に送られ、引き続き迫害された。内科の李主任、看護婦の高淑芳、看護婦の徐晶、張園園、国保1所の凶悪な警察の叢大民は、手錠で私の手を死人ベッドの前の柱に固定し、足で下へ踏んでいた。4カ月半の迫害によって、私の体重は87.5キロから35キロまで下がって、血圧の高圧の55、低圧の35、2002年12月20日に師父の加持で危険状態から脱出した。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/5/29/129071.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/6/23/74723.html