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同修のみなさん 必ず口を修めることに注意してください

 【明慧ネット2006年10月2日】師父は『転法輪』の中でわれわれに、修煉の法門が違うので、また大法弟子が口を修めることは出家した人とは異なるが、大法弟子も口を修めるべきだと教えてくださいました。「われわれが口を開いてものを言う時には、煉功者の心性にもとづいて言い」、「法の基準にもとづいて、自分自身でそれを言うべきかどうか判断し」、「われわれは煉功者の心性基準にもとづいて自分を律し、何を言うべきで何を言うべきではないかをしっかり自制できればけっこうです」。私は周りの同修、私自身を含めて常に口を修めることに注意していないことに気づきました。これは修煉の中の漏れです。もしみなが口を修めることを注意しなければ、大法を実証することに損失をもたらすかも知れません。

 数日前に、ある大法弟子が私の母に「そろそろ10月1日になるので、派出所と公安局は路頭に迷う大法弟子を探そうとしています。2日くらい経ったら、あなたを探しにくるはずです」と言いました。私の母と私たちは同修のこの話を聞き、路頭に迷う大法弟子に対する邪党の非合法な捜査による迫害を徹底的に否定し、この同修の話を否定しなければならないと思いました。

 その後、私は正念を発してこのすべてを否定しようとした時、母のとても深い一つの空間場に、まさにその空間にその言葉が浮いているのが見えました。まさに同修が母に言った、私が取り除こうとするその言葉でした。あの存在の形式はコンピュータにコマンドを入力したようで、いつか必ず執行するような感じで、まだ正確ではありませんでした。とりあえずいつか必ず執行されそうでした。

 その時私は驚きました。いつもはただ法からわれわれ修煉者の言う言葉はエネルギーを持つということは認識していましたが、しかし毎日どのくらい多くの言葉をしゃべるかわからないため、時間が長くなると、口を修めることをあまり注意しませんでした。意外にもわれわれが話した言葉が正に記載されていて、あそこに浮いているとは思いませんでした。私は、徹底的にその言葉を取り除くという一念を発し、とても強大な功を発しました。すると、あの空間のあの言葉はすぐ砕けてしまいました。

 私は自分があまり口を修めていないことについてとっくに知っていました。特に家庭問題上、変えようとしても変えられなかったのです。そして、私は自分の空間場もきれいにしようと思いました。天目の中では、なんとまあ、私のその空間には1つ1つの字が1つの山をしっかりと遮って、重なり合っていて、本当に大変でした。とても焦り、これらはすべて法に基づかない言葉で、これではどうやって修めるか!と思いました。それらを取り除こうと試みましたが、あまりにも多すぎて、自分でも自信がありませんでした。私は一念を発しました。「以前話した大法の要求に叶わない言葉をすべて取り除く、それらが作用を働かないようにする」と。この一念が発せられると、おや!それらの字は一瞬にすべてなくなってしまいました。私が正念を発して同修のあの言葉を否定することに比べるととても気楽でした。しかもきれいに取り除かれていました。当然ながら私が見たのは一つのとても低い次元でした。

 その後、私はわれわれ同修が一緒にいた時、特に今回の迫害に直面した時、言い出す多くの言葉は人間の基点に基づいていて、自分の経験、常人の推理に基づいて、一部の人或いはことについて判定し、甚だしきに至っては定論を出し、またそれによって多くのことが影響を受けるかも知れない、ということを思い出しました。

 実際口を修めることは、根本的には心を修めることです。心が正されると、修煉者にふさわしくない言葉を言い出しません。私は今日見たからこそ、やっと師父の説かれた法の厳粛さについて認識できました。しかし見たから信じ、見えなかったら信じない、或いは重要視しないとは、悟性が優れていないのではないでしょうか!私はこのことにより、深く体得できたのは、師父の説かれた一つ一つの言葉はすべて法であり、われわれは「何事も法に照らして、成し遂げれば修になる」ということです。大法弟子らがみな更に精進できることを希望します!

 師父 中秋節を楽しまれることをお祈り致します!

 以上は、個人の体験で、適切でないところについて同修の慈悲なる叱正を願います。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/10/2/139183.html