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色欲心を取り除くことを重視しよう

(明慧日本)数年来、色欲の心を取り除いていないため、邪悪に隙につけ入られて大法を証明する仕事に大きな損失をもたらす体験談をよく明慧ネットで見ます。師父は説法の中で、数回にわたって色欲の害を説いて下さいました。しかも絶えずこの面において誤りを犯した学習者に改める機会を与えておられます。しかしながら、今日まで、私たちの周りに心を痛めるできごとが絶えず発生しています。

 天目が開いた一部の学習者はほかの空間の魔の妨害を見ました。一部の学習者は一時的に理性を持つことができず、修煉者がやるべきでないことをしてしまいました。一人の修煉者として、いかなる問題が表れても、自分のうちに向かって探すべきです。では、われわれはなぜ妨害されているのでしょうか? 一正が百邪を圧するのです。一人の純正できらめいている神に、低い腐敗の生命が近づくことができるのでしょうか? 妨害はなおさらです。われわれの思想や行為上に不正のものがあるからこそ、邪悪に隙につけ入られたのでしょうか? 法を学ぶことや明慧ネットの伝統文化を見ることを通して、現代の変異した観念が不正要素の存在の一つの原因であると思います。

 伝統的な教育を受けた中国人は皆よく知っていますが、中国古代において儒教、仏教や道教の正当な文化の広まりとともに、人々の道徳はこれらの文化の影響を受けており、一挙手一投足にも礼儀を重んじ、男女の倫理上における要求はなおさら厳しいのです。例えば、男女は直接に品物のやり取りをしない、夫婦は互いに客人のように尊敬し合う、貧しい時代から苦労を共にしてきた妻を尊敬することなどがあります。

 しかし、現代社会になると、伝統的な文化が破壊されるとともに、人類の道徳水準が大幅に下落しており、人間の本性は変異した観念に埋もれています。一番顕著なのは男女の倫理上での現れです。例えば、身を清く保って、悪に染まらないことはもうしない、男女の交際において距離がなく、尺度がないことで、しかも、人々はこれらの不正行為をたいしたことがないと思っています。われわれも毎日このような環境の中にいると、知らないうちに汚染されています。

 師父は「常人社会に流され、汚染されたために、人々が正しいと思うことの多くは本当は間違っているのです」(『転法輪』)と説かれました。修煉者として、われわれが真剣に自分の内に向かって探すならば、必ず思想と行為に変異したものを見つけられると思います。私が知っている同修の中に男女関係についてあまり注意していない人がいます。例えば、ちょっと年をとった男性の同修は若い女性の同修を自分の子供のように扱って、喜ぶときに無意識に女性の同修を軽く叩いたり、あるいは手を女性の同修の肩にかけたりします。若い男性の同修は若い女性の同修を自分の妹のように扱って、生活上の取るに足りないことにおいて自分の行為をあまり注意しなかったりします。あまり過分なことではないのですが、すでに伝統的な道徳要求に合わなくなっています。

 上述のことは道徳水準が大幅に下落した常人にとってなんでもないことであるかもしれませんが、修煉者としてこう思うべきではありません。修煉者にはより高い要求があるのです。ではなぜわれわれがこれらのよくない行為を意識しないのでしょうか? その原因を考えると、変異した現代の観念の影響を受けているからではないかと思います。古人は「よくないことがあまりにも小さいからといって、やってもかまわないわけではない」と言いました。また、古語の「小さいことにおいて注意しないと、遅かれ早かれ大きな誤りを犯すことになる」というのは同じ道理です。もしわれわれが日頃男女の扱いの上で自分の行為を厳しく要求しないと、時間が経つとともに変異の要素が次第に大きくなり、結局、変異した観念に陥ってなかなか抜け出すことができなくなり、最後に自分の修煉に大きな妨害をもたらすことになりかねないのです。

 2006年7月27日の正見ネットに「出家し僧侶になる」という釈迦牟尼の弟子、摩訶迦葉の修煉物語が掲載されました。迦葉は若いとき美男でした、しかし五欲を嫌がって修煉のことばかりを考えていましが、両親の意思に反対できず結婚しました。新婚の夜、妻である妙賢に互いの心境を打ち明けました、二人とも修煉する意志の強い人であることがはじめてわかりました。その日から、一人がベッドで寝るときは、一人が座禅をして交替しながら二人はともに精進しています。

 ある夜、妙賢が寝ており、迦葉は座禅が終わったばかりのとき、一匹の毒蛇がベッドの近くに這ってきました。ちょうどこのとき、ベッドの外に垂れていた妙賢の手が蛇に非常に近く、迦葉がこれを見て、焦って衣服で自分の手を包んで妙賢の手をベッドに戻しました。この行為に怒った妙賢は迦葉に問いただしましたが、事情がわかった妙賢は迦葉に詫びました。このように二人はずっと両親がこの世を去るまで一緒に12年を過ごし、結局、二人とも釈迦牟尼の弟子になり、悟りの正果を得ました。

 この文章を読んでたくさんの感触を得ました。迦葉は色の前に心が動ぜず、厳格に自分の境界を要求していることに感心しました。大法弟子は現在最大限に常人社会の状態に合わせて修煉しており、大迦葉のような修煉方法をとりませんが、執着心を取り除くことにおいて決して要求を下げてはならず、常人社会の状態に合わせるという口実でわれわれの執着心を隠してはいけません。

 このほか、一部の同修は男女間のことをしゃべるのに夢中です。同修が自分の過去に男女関係で犯した誤りを言い出し、一部の同修は興味津々であっちこっちに言い広めて、結局、同修に大きな圧力を与えることになり、無意識のうちに同修間に隔たりをもたらすことになりました。これはどれほど強い執着心でしょうか? なぜこのことにこんなに興味を持つのでしょうか? 自分の執着心に合うものがあるからではないでしょうか? 常人でも正直な人は風紀を乱すようなことは聞かず、言い広めないのですが、大法の修煉者としては、一層慎まなければなりません。

 色欲の心に関しては、異性間のものだと多くの人々が考えているのですが、実は同性の間にもよく現れており、ただわれわれがそれを意識しないだけです。例えば、私はきれいな女性が好きです。自分があまりいい顔をしていないから、きれいな女性を見たら、口でほめるだけでなく、時に顔を見つめるのです。修煉後、作られた真相資料に顔のきれいな同修の写真があったら、いつもダウンロードし、拡大してよく見るのです。海外で大法を伝える活動で仙女を演じる同修の顔がきれいかどうかをいつもチェックしており、きれいであるならば、ダウンロードして保管するのですが、そうでなかったら、なぜきれいな方を選ばないかと文句を言うのです。最近になって私はこの執着をはじめて意識しました。

 われわれはこの万古にただ一度のチャンスに恵まれ、尊師自らの済度をいただいており、これはどれほどすばらしい栄耀でしょう。世間のすべでは虚像であり、常人は幻の中に執着していますが、修煉者としての私たちはこれらの虚像をはっきり認識しなければなりません。世間の因縁関係は業力の因果応報に過ぎません。われわれが世間にやってきた本当の目的は自分をきれいに洗って返本帰真し、自分の先史の誓約を実現するのです。一時の執着で自分の永遠を台無しにしないようにしてください。ここで色欲心をまだ取り除いていない学習者は尊師の説法をより多く学び、明慧ネットの伝統文化の物語をより多く読んで、自分の執着を正視し、自分の思想と行為をただし、根本的にそれを取り除きましょう。

 2006年11月11日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/8/26/136431.html