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二言三言:口を修めるにはまず心を修めなければならない

(明慧日本)『転法輪』の第八章の最後の一節では、師父は口を修めることに関して説法なさったことからも、口を修めることも真に修煉する大法弟子が必ず修めなければならないことが分かる。

 法を正す中で修めてきた大多数の大法弟子のほとんどは、口を修めることの重要性を知っている。修煉する中で言うべきことは言うが、口にすべきでないことは言わないようにして、すべてについて法に基づいて修めてきた。だが少数の学習者はいつも口を修めると言いつつも、実践においてはあまり重視していないようだ。例えば、風評を好み、よく他の学習者の世間話をするとか、無意識のうちに学習者間の矛盾を第三者に話すとか、あるいは外部の者に資料製作所についての情報を話すなどがある。

 師父は、「人が意識的に念を起こすとか、何かを言うとか、何かをやるとか、人の感覚器官、四肢(しし)を支配しようとするとか、そういうこと自体が常人の中では一種の執着となって現われるかも知れません。例えば、人と人の間にトラブルがあって、あなたが良いとか、彼が良くないとか、あなたは修煉が良くできたとか、彼は修煉が良くできていないとかして、これらのこと自体が摩擦です。一般的な例をあげてお話ししますが、わたしは何かをやりたいとか、今このことはどういうふうにやるべきだとか、こういうことでも無意識のうちに誰かを傷つけるかも知れません。人と人の間のトラブルは非常に複雑なので、知らないうちに業を造ってしまったかも知れません。」(『転法輪』より)とおっしゃっていたにも関わらず、なぜ一部の同修は口を修めることの重要性を知りつつもなお、重視しないのだろうか? 実は人心が強く、顕示心、歓喜心、嫉妬心、闘争心が原因であると思う。すべての人心が口を修めることを阻害する執着である。

 口を修めるために口を修める。これでは根本的に問題を解決することができない。法をしっかり学び、絶えず内に向けて探し、段階的に良くない人心を取り除くことができることで、初めて根本的に口を修めることができるのだ。

 2006年12月2日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2006/11/28/143264.html