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自我を放下し、共に手をつないで共に衆生を救い済度する(一)


 文/吉林大法弟子  昕清

(明慧日本)尊敬する師父、こんにちは! 同修のみなさん、こんにちは!

 師父の恩を思うと滂沱の涙が止まりませんが、もし師父と大法がなかったならば、私はどのようにしてまた一つまた一つの関を乗り越えることができるのか想像もつきません。強い常人の心と執着を持って同修とぶつかった時、私は逃げようとし、私を取り囲んだ法を実証する環境から離れようと思いました。しかし、師父の慈悲と正法時期の大法弟子の責任を思い、私は逃げずに残りました。常人の心を取り除く過程の中で、私は初めて、佛性に対してより深い悟りを得ることができました。「人間の佛性は善であり、慈悲として現れ、何かをする時、まず他人を配慮し、苦痛に耐えることができる」。(『精進要旨』「佛性と魔性」)この法理によって私は、自分と同修との間のトラブルを良く行うことができなかったことの根源を探すことができました。私は、師父が私の毎日の修煉を含むすべてを按排してくださったことにとても感謝しています。当時は、関を乗り越える過程がとても苦しくて師父の思いやりに気付くことができませんでしたが、次元の向上につれて、たとえ修煉過程の中で常人の心を取り除くことが苦しくても言葉ではなかなか言い表せない神聖さに包まれていると思うようになりました。今、私は謹んで私のために師父が按排してくださったすべてを受け入れます。 

 ここ一年間、私たちの地区は比較的迫害が酷くなっていました。協調人をやっていた同修も現地を離れて行ってしまいました。私は知らず知らずの内に毎日パソコンの操作ばかりやっていて、何人かの同修としか面識がなく、前の協調人に話しかけるだけでいつも緊張して顔を真っ赤にし、ちょっとしたことでも興奮しがちですぐ人を非難し、公に顔を出すことを恐れていました。このような私が思いもよらぬことに協調人を引き受けることになりました。これらの突然の変化を私はなかなか受け入れることができませんでした。こんな私を師父は絶えず諭してくださいました。

 また、同修たちも絶えず正念を持って激励してくれました。正法時期の大法弟子の責任によって、私は絶えず前へと進みました。少し前のことですが、ある同修から、あなたたち協調人は何を協調しているのかと聞かれた時、当時私は少し驚きました。内心から私は自分を協調人だと考えたことがありませんでした。はっきり言うと、私には協調人の責任が重過ぎて、私の心性と度胸ではとても担い切れないと思っていました。甚だしきに至って私は前の協調人が現在の深刻な迫害状況を見て戻ってきてくれたらいいのに、とさえ期待していました。しかし、この体験交流文章を書こうとしたとき、私の考えは変わりました。

 他人ばかりを頼りにしている、この種の頑固な常人の執着を取り除かなければならないと思いました。今、私はどのように責任を持って現状に立ち向かっていくべきなのかを知るようになりました。大法の中で、私は「邪悪が狂暴しても道に迷わず悪を取り除くことを、塵を払うことと見なす」(『志は退かない』)という強い正念をもって自我を放下し、同修と良く協力し合い、激励し合って互いに手をつないで共に衆生を救い済度すべきでした。雲は天を遮ることができず、いかなるものであろうとも大法弟子の正念によって変わるのです。ここで、ここ一年間の修煉の中で体験したことを書き出して同修の皆さんと交流したいと思います。中には経験もあり、また血の教訓もありますが、不適切なところがあればみなさんの慈悲のご指摘をお願いします。 

 * 観念を変えて、落ち込みから抜け出る

 私たちの地域は2003年初めごろ、正法活動に参加する学習者の人数が限られていて、当時協調役をやっていたある同修が私を訪ねて来ました。その時から私は全体の正法活動に参加するようになりました。当時、私は主にネットへの接続および印刷、レイアウト作成などを含む技術を担当していました。その中で二人の同修が私に協力しましたが、今日に至るまで修煉の過程の中で幾度となく彼らに助けてもらったことを覚えています。師父の慈悲、同修たちの寛容と信頼のおかげで「当時ものごとを知らないお嬢様」(当時は心性がまだ向上していなかった)だった私が大法の中で絶えず成長するようになりました。 

 私たち三人は良く協力し合いながら「地域刊行物」と「地元交流」といった印刷物を作りました。しかし、当時同修たちの中にはこの二種類の刊行物に対して少し議論がありましたが、時間が経つにつれて、しかも法を実証する進展の需要によって、この二種類の刊行物は次第に同修たちの認知を得るようになりました。「地域刊行物」は、主として同修たちが現地の正法活動情況を把握し、共に同修への救援、真相説明及び現地の邪悪を暴露することに積極的に参加できるよう明慧ネット上で検索して集めた当地域の関連情報を載せました。

 「地元交流」は、主に私たちの地域に普遍的に存在する問題に対して、明慧ネットから内容がとても良い交流文章を抜粋して同修たちに紹介しました。例えば、当時私たちの地域にはある同修が逮捕されると他の同修のことを持ち出すといった、とても良くない現象が普遍的に存在していました。これらの問題を中心に私たちは四期にわたりこの方面の関連文章を載せました。しかも、交流会を開いて絶えず交流を行い、すべての同修が法をもって認識できるようにしました。その後は学習者が逮捕されて自分が邪悪の迫害を受けてでも同修を「売る」といった現象はほとんどありませんでした。

 ちょうど私たちの地域で正法活動に参加する人数が増えはじめ、すべてが良い方向へと発展しようとしていた時、技術面で協力していたある同修が邪悪に逮捕されて、身辺には一人しか残っていませんでした。この一年の間に私の母親は病業によって命を奪われました。当時、私は師父の最新経文の印刷に追われていました。しかも、他の地域のプリンターが故障したので、その修理のためにバタバタしていました。私が母のところに行った時、母はすでに亡くなっていました。

 私は冷静に身内と後の処理を済ませて、翌日すぐ資料点に戻りました。なぜなら、当時はとても人手が足りない状況だったからです。母の死は私にとって永遠の心の痛みとなりました。私は一人ぼっちになってしまいました。常人のこの社会の中で、母ほど私のすべてを寛容に受け入れてくれた人はいませんでした。当時ある同修が私に、「何といってもあなたのお母さんは法を得た人ですよ。必ず良い落ち着き場所を見つけたはずです。しかし、世の中にはまだ真相さえ知らない人がたくさんいます。彼らは私たちの救い済度を待っているのです」と、話してくれました。これらの話は、私の本当の責任は何であるかをしっかり自覚させてくれました。 

 母が亡くなってから、私は全力を尽くして任せられた法の活動に溶け込みました。当時はちょうど資料点が徐々に各地域に広がり始め、私たちも忙しくなりました。後に私は、自分はまるで子供のように大人の後をついて騒いでいるのだと気付きました。なぜなら、実は修煉は絶えず自分自身の心性を向上させることであるということを明確に理解していなかったからです。ですから、当時同修たちとたくさんの大法のことをやっていましたが、私の心性は根本的に実質上の昇華に至りませんでした。トラブルに遭った時、真っ先に浮かび上がる念は不満であり、そのトラブルの中で原因を自分の中で探すことができませんでした。

 トラブルが大きくなって目の前まで迫ってきてやっと、何か私に問題があるのではないかと考え始めるという具合でした。実のところ、これらの状態の本当の原因は、法を勉強する時、心を静めて法を勉強し、法を師とし、法に基づいて修煉することができなかったからです。当時はただ協調人の言うことが法に符合しているように感じたら協力し、何かトラブルに遭った時は自ら積極的に法をもって悟ろうしませんでした。逆に協調人に頼りすぎて、彼なら当然のことながらすべてを周到に考えるべきであり、それを私などが考えるべきものではないと思っていました。このように私は、人為的に本来なら学習者全員が協力してやるべきものを全部協調人に押し付けていました。知らず知らずのうちに協調人は私たちの修煉の中の柱になり、彼には目に見えない形でたくさんの重圧が加わっていました。甚だしきに至っては私のこれらの強い依頼心によって自分は他の学習者の上にいるという協調人の権威心を助長してしまいました。

 これらの強烈な依頼心により、長期にわたって協力し合ってきたつもりが、実は心はどろどろとした情だらけでした。当時私は、私と2年もの間協力してきた同修が現地を離れるという話を聞いて驚いて信じられませんでした。他の同修が逮捕されたばかりでやっと落ち着く場所を見つけてようやく正常な状態になりかけていた矢先に、彼がこのような信じられないことを言い出したのです。しかし、当時私は自分のことしか考えず、長期にわたって他の同修たちが邪悪らに不法逮捕されるなどで、協調人がどれだけの大きな圧力を受けていたのかについては、まったく考慮しようともしませんでした。

 考えてみれば、その時私たちの間には法に対する認識の違いによって絶えずトラブルと誤解が起きていました。突然やって来た出来事は少しの前兆もなく、当時の私にとっては受け入れることができる心性ではありませんでした。空っぽになった部屋に一人残されたとき、私は初めて怖いと感じました。なぜなら、いままで資料点に私一人留守番したことがなかったからです。これらはただ始まったばかりで、実は常人の立場から言うと、私の人生の経歴はとても簡単で、まだ学生気分がいっぱいで紆余曲折を経験したことがありませんでした。母の死が私にとっては一番の重大な出来事でした。ですから、今後の修煉の道の中でこれほど激烈に人の心に衝撃を与える出来事が私を待っているなどと思ってもいませんでした。

 私はその時、この町を離れようとしました。なんと言っても「技術者」を必要とするところはいくらでもあるから、どこでだって法を実証することができると思いました。しかし、このように協調人が行ってしまい、引き続き技術担当まで行ってしまうのでは、私たちの法を実証することと衆生を救い済度することに影響を与えるに違いありません。しかも、逮捕されて迫害を受けている同修もまだいました。この時、師父のお言葉が聞こえてきました。「大法弟子がどんなことをしても、法を第一位にしなければなりません。どんなことを扱う時でも、まず法のことを考えなければなりません(『2002年ボストン法会での説法』)」。

  私は床に座り込んで泣き崩れました。ある同修が私に、「今後どうするつもり?」と尋ねました。家に帰って考えてみる、とわたしは答えました。すると同修は、「どのくらいかかりそうですか? 1カ月ですか?」と聞きました。私はそれは長いと思いました。「一週間ですか?」と同修は引き続き聞きました。私は依然として言葉を口にしませんでした。なぜなら、それでも私は長いと思ったからです。私は関を乗り越える時間をあまりに引きずりすぎてはいけないと感じていました。同修はまた、「二日で良いですか?」と聞きました。私は「2時間ください」と答えました。すると同修は私に、「実はあなたは2分もかからないはずです。あなたが立ち上がってコンピューターの前に座ることさえすれば」と言いました。その瞬間私はまるで師父が同修の口を借りて私を諭してくださっているのだと感じました。そして、私は本当に立ち上がりました。ちょうどその瞬間、私はまるで自分の世界の衆生が私のために喜んでいるのを見ているようでした。なぜなら、私が苦痛の中から立ち上がることができたからです。その時から私は自分自身に、執着に気付いたら必ず師父の加持のもとで、引きずることなく最も短い時間内にそれらを取り除いて立ち上がるのだと、言い聞かせました。さもなければ、本当に衆生を救い済度することを遅らせてしまうからです。 

 同修は帰り、私は残りました。心の中には一塊の解決し難いトラブルと情と憎しみばかり残っていました。これらは私が法を実証する活動の中で一連の問題をもたらし、それによって私は消極的な状態に陥りました。まず、私は現地のその他の協調役をやっている同修のことをまったく知らず、面識があるだけの同修には声さえかけたことがありませんでした。今まで前の協調人はすべての外回りのことを一人でやって私たちはただその活動に参加するだけでした。今私は他の同修たちと連絡を取り合いながら関連情報を集めて自分一人で歩んで行かなければならないのです。

 しかし、どっちがどっちなのかまったく知らない道もたくさんあり、一人で初めて法の勉強会に行った時、結局道に迷ってしまいました。私はとても悲しく思いました。ちょうどその時、他の同修たちと比べて良く行っているように感じていた同修のおばさんは、私に「今あなたはある程度落ち着いていて、大法のことも軌道に乗って正常に動いていているようだから私は抜けるわ」と告げました。同修の話を聞いて私は泣きました。しかし、私はこの同修も難の中に身をおいていて、外と家のことに行き詰まっている状況を知っていました。彼女は前の協調人とのトラブルによって躓いてしまったのです。実は彼女も調整が必要でした。彼女が出て行ってから私はベッドの上に倒れました。今は本当に私一人になりました。机の上に山積みになっている資料の多くは同修たちとの確認作業が必要で、私はあまりの圧力によって窒息しそうになりました。

 その時から私は体調を悪くし、食事が喉を通らず出血する始末でした。その時私に、「もし、万が一私に不幸があっても誰も知らないだろう。だって私の住まいを知っている人はほとんどいないのだから」と、とても良くない念が生じました。しかし、当時の私にとって最も困難な時期であったにもかかわらず、ほとんど毎晩泣きながらでも「時空を正法は急ぎ、巨大な難でも志は動かない……」 (『志不退』)「悪者は嫉妬心によるもので、私のため、意地のために自ら不公平であるとしている……」(『精進要旨』『境界』)との経文を暗記してから寝ました。いわゆる魔難の中で私は幾度となく自分自身に問いかけました。「私は本当に修煉しているのか? 私はなぜいつも幼な子のように泣いてばかりいるのか? なぜ神の道を歩んでいる大法弟子のように見えないのか? なぜ正念を持って困難に立ち向かおうとしないのか? いつになったら常人の本質が佛性に変わるのだろうか? いつになったら自我を忘れて他人の苦痛と困難を思いやるようになるだろうか? いつになったら衆生のために涙を流すことができるのだろうか?…… 」。

 「実は、人類社会の理は宇宙の中で逆になっています。人間が難に遭い、苦しみを味わうのは業を返し、幸せな未来を得られるようにするためです。修煉者の場合、正しい理にしたがって修煉すべきです。苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正しい法理です」(「最後になればなるほど、精進すべき」)。「大法弟子はなぜ修煉しているのでしょうか? なぜ関を乗り越えなければならないのでしょうか? なぜ正念を強く持つ必要があるのでしょうか? なぜ苦しみを味わう必要があるのでしょうか? このようにしてはじめて、修煉だと言えるからです。実は修煉はほかでもなく、苦を嘗めるためにきたのであって、この世での保護を得るためにやってきたのではありません」(「2005年サンフランシスコでの説法」)。師父の説法は、私を心の底から修煉とは何なのかを認識させました。常人は安逸な生活を求めていますが修煉者は違うのです。実は、私たちが苦と思っているのは常人の執着を放棄したくないからです。難儀に遭うのは修煉者にとって向上できる良い機会ではないでしょうか? この点の認識ができると直ちに私の心から万難を排除できるほどの正念が生じました。 

 私が落ち込みから完全に立ち直るようになったのは、他の地域にいる同修が技術を知らず、しかも様々な困難を抱えている情況下でも依然として真相を伝え衆生を救い済度する活動を続けているということを自分の目で見た時からでした。その時、私は人生で初めて一人で外出しました。前の協調人がやめてから私一人で協調の役割を初めて果たしたのです。私は他の地域の同修に真相の小冊子を編集する方法を教えました。そこの地域も法の活動に参加する同修の人数が多くありませんでした。しかも、田舎の学習者が多く、パソコンを使った編集などの技術面で困っていました。住んでいるところもとても貧困で冬になって寒くなると防寒のために部屋の壁にはビニールをいっぱい貼り付けていました。まるでビニールハウスのようでした。彼らは私がこのような環境に慣れないことを考慮して比較的条件が良い宿を探してくれました。数日にわたる彼らとの接触の中で、表面上では私が彼らに技術を指導しているように見えましたが、実は私は心の底から師父に感謝していました。なぜなら、このような機会があってこそ、私は初めてこれだけ困難な状況下でも文句一つなく、衆生を救い済度することに力を注いでいる同修たちのその貴重な心を見ることができたからです。

 最後に別れる時、みな一緒に長い時間をかけて交流しました。私たちは互いに相手にたくさんの提言をしました。その中で一番記憶に残っているのは、私の食事の量があまりにも少ないという指摘でした。それもそのはずで、実はそれも旧勢力の迫害の現れでした。他の地域から家に戻ってきて、私は食事の面から「旧勢力を否定」しました。充分な食事を取らないのでは、どうやって元気を出して衆生を救い済度することができるのでしょうか?

 (続く)

 (第三期大陸大法弟子修煉体験書面交流大会交流原稿)

 2006年12月12日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/10/25/140722.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/11/18/80043.html