日本明慧
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自我を放下し、共に手をつないで共に衆生を救い済度する(三)


 文/吉林大法弟子 昕清

(明慧日本)

 *法に則って、衆生が必要としているものを選択した

 法をもって私たちすべての修煉者は協調人であると認識してから、私は技術ばかりやっていた過去とは違って絶えず同修たちと接触し始めました。協調の過程は私にとってすべてが斬新なものであり、挑戦的でした。私の性格からして自分は協調人にふさわしくないと思っていました。それもそのはずで、以前の私は周りの同修たちがトラブルで困っているのを見て、もし私なら逃げ出してしまうとまで考えていたからです。以前私は、もし私が協調人をするとなると、協調できるところか最後には自分自身さえ分からなくなってしまうのだと、よく冗談を言っていました。これもまったくの根拠のない話ではなく、以前私は比較的閉鎖的な環境に置かれていて、それによって良くないたくさんの悪い観念が形成されました。ひねくれた性格で言葉も少なく、利己的で自己観念が強く、周囲に気配りせず寛容というものをまったく知りませんでした。このような人間が協調人を務められると思いますか? 私は、自分は技術なら何とかできると思いました。なぜなら、この方面において私はとても努力しており、その上少しばかり経験があったからです。特に真相説明資料の作成においてはすでにしっかりとしたものを持つようになっていたからです。しかし私は、修煉は絶えず自我を放下し、大法の需要によって選択しなければならないと深く感じるようになりました。なぜなら最後にはつまり選択だからです。しかしこのような認識がある反面、心の中でもしかして私は選択を間違っているのではないかという心配もあり、自分は比較的パソコンに向いていると考えました。その後、これらは大法に条件をつけていることだと認識しました。修煉者としてどの時期に何をするかについては、その中に修煉の要素があるのです。私は責任を負うことを恐れ、また自分のたくさんの執着が暴露されてみんなの標的になってしまい、同修の間で議論されることに怯えていたのです。これらのすべては私の心配により、硬く私自身を包み込みました。ちょうどこの時私は、なぜ師父は私たちにこのような修煉の道を按配してくださったのかを悟りました。それはつまり、私たちに早く常人の心を取り除かせるためだったのです。この時私は、協調人の役割はただの仕事上の分担であり、それを私はあまりにも重く見過ぎていました。実は自分自身を重く見過ぎていたのです。師父はこれらの一切を見ず、私たちの心のみを見ておられるのです。ですから、大法弟子として何をやろうとも心をもって常人を救い済度すべきだと認識するようになりました。

 しかし、如何なる状況下でもこのような明確な認識を保っているとは限りませんでした。ある地域の同修が邪悪に逮捕された時のことを覚えていますが、その地域のある同修が彼らと交流して欲しいという話がありました。私はその地域の同修たちとあまり面識がなく、心の中では行きたくないと思っていました。しかし、道理上では自分に責任があると感じ、断ることができませんでした。それで良いと返事を出しました。翌日、その同修からまだ連絡が取れていないと聞かされた時、まるで肩の荷物を降ろしたかのようにほっとした気分でした。心の中で今夜の帰りは遅くならないと密かに喜び、自分は予定通りにパソコンに向かって何かをしようとしました。その時、突然私の背中に激痛が走り、咳をすることすらできなくなりました。私はすぐ自分のどこに問題があるのかと原因を探しました。私の体はずっと健康だったのに、なぜ突然こんな状態になってしまったのか? 私は自分の念のどこかが間違って邪悪に隙に乗じられているのではないか、と考えてみました。振り返ってみると他の同修は迫害に遭っていて、その地域の同修は救援のために交流を求めているのに、私は常人の心で対処したのです。このことに気付いて、私は直ちに連絡を担当した同修に、なぜ今日の交流会が予定通りにできないのかの原因を調べました。また、その同修もみんなの助けと励ましを必要としているのだ、と思いやる気持ちが生じました。その瞬間、私の背中はそれほど痛くなくなりました。実は、このことがある前に、私とある同修は周辺のある市に交流に行く予定でした。しかし、ほかの大法の仕事がまだ忙しく、まず自分がやっていることを優先しようとしました。その後その市の邪悪は洗脳班を立ち上げました。当時私は深く考えませんでした。やはり別々だという考えがありました。連日にわたり洗脳班が続き、その時に私はやっと自分に問題があると認識しました。真っ先に生じたのは、その地域に行って交流を行うとの正念だったのですが、なぜその後に常人の心が現れたのか? 私がその地域に行くとなると他の同修はどう思うのか? 私が余計なことに干渉しているのだと考えないのか? 実は法を実証することに有利であれば、私たちはどこにだって行って行なうべきです。私と同修がその市に行って交流を行うことを決めた途端、私の背中の痛みは完全になくなりました。この二つの出来事を通じて私は、如何なることがあってもまず、大法と衆生の需要を先に考えて、法を実証することに有益であれば他人に責任を押しつけず、自分で積極的にやるべきだと認識するようになりました。

 (続く)

 (第三期大陸大法弟子修煉体験書面交流大会交流原稿)

 2006年12月14日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/10/25/140722.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2006/11/18/80043.html