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ある同修の書いた文章を読んだ感想


 文/四川省の大法弟子 洪揚

(明慧日本)「明慧週刊」第253号の中にある、「時間から連想された慈悲」というタイトルの同修の書いた記事を読んだが、最後の段落で、同修は「この文章を読んだ他の同修は、私の父が救われるように正念を発してください」と書いていた。このように書くのは妥当ではないと思う。

 私の地元にも、少数ながら同修は自分の体が苦しくなった時、他の同修に正念を発してもらうよう求めたり、修煉者の親戚の修煉が精進しない時、同修に親戚を支援する意味で正念を発するよう求めたり、修煉しない家族が怒り出してわめいた時ですら同修に発正念をするよう求めており、すでに一つの慣習になっている。これに対して、一部の同修は、面子のため言われたように発正念をし、このようなことになる度にただちに発正念をしている。そのため、たくさんの同修は、長い間個別の同修を助けるという理由で発正念をしている。このような同修よりも、私達は、より多くの不法に逮捕され、拘禁されている監獄や労働教養所の中にいる同修のために正念を発するべきであり、なぜなら、今回の迫害を徹底的に解体させるために発正念をするべきだからであると思う。

 ここにおいて、類似する現象のある同修は、他の同修に対する情にかられて行動しないよう、いかなる状況下であっても、法をもって師となすよう提案する。個人の認識に過ぎないので、不適切な所はぜひご指摘ください。

 2006年12月21日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2006/12/21/145126.html