■日本明慧 http://jp.minghui.org/2006/12/26/mh281723.html 



自我を放下し、共に手をつないで共に衆生を救い済度する(五)

 文/吉林大法弟子  昕清

(明慧日本)

 * 理解を求める、これは私の修煉の中の漏れであった

 長い間、私はずっと何かに阻害されているような感じがしていました。それが法の中で精進できない原因となりました。つまり、トラブルと挫折に遭うたびに、いつも他人の理解と寛容を求めていたのです。いつも、自分が好きな船がやって来て助けてくれるのを期待していました。しかし、私は終始そのような機会に出会うことがありませんでした。これから、どのような状況下でこれらを意識するようになったのかについて説明をします。

 それは、私が初めて協調人の役割を担った時のことでした。ちょうど中共の秘密収容所での生体臓器摘出事件が発覚し、その真相調査委員会のことをも含めて他の学習者たちと一緒に交流を行っていた時のことでした。交流が終わるころ、何人かの長年修煉している学習者たちは口をそろえて、「何かをやりたいという心が動いていないのか?」と私に聞きました。当時、私は緊張しました。なぜなら、私はまったく何も考えていなかったからです。ある同修は私に、「この中であなたは一番若い。しかし、あなたが法をもって活動をするのであれば、私たちはあなたに協力する。たとえ、漏れがあったとしても私たちは黙々と円融し、補い合いながら大法のことをやっていく心構えでいる。なぜなら、初めての時は励ましと慈悲が必要だから。言い過ぎると受け入れることも難しいだろう」と、温かく説明してくれました。同修の話を聞いて私は、これからはもっとしっかりやっていくべきだと思いました。

 同修たちの慈悲と寛容は、私が前へと精進して行く上での力となり、決して自分一人で苦戦しているのではないと心強く感じました。ある日、私は夜明け4時ごろ、ある同修と一緒に出かけることを約束しました。同修は早すぎると言いましたが、私は大法のことだから遅れてはいけないと強い口調で言い返しました。しかし、思いもよらぬことに翌日、なんと私自身が寝過ごしてしまいました。5時過ぎにやっと現場に駆け付けたら、同修は一人でもうすぐやり終えるところでした。彼は私に何の文句も言わず、ただの遅刻として接しました。私は心が打たれました。もし、相手が私自身だったら、このように冷静に穏やかに対処することができたのでしょうか? 同修の寛容と激励の下で最も困難な時期であるにもかかわらず、私の心はいつも安らぎを感じることができました。しかし、私はいつも自分自身が常人という枠から抜け出せず、常人の中の理解を求めていると気付きました。

 同修たちとの接触の中で、彼らは時に私をたずねて、彼らがぶつかっている問題などについて話しました。例えば、同修間のトラブルや他の地域との協調人からもたらされる問題など。私は口では何も言わなかったのですが、内心では、「あなたたちは少しばかりの問題でもこのように私に言いに来るとなると、私が受ける圧力と苦しみ、それに私自身が放下しなければならない執着を含めて、私はこれらを誰にぶつければ良いのだろうか?」と、自分のことを先に考えました。このようなことがあるたびに私は、常人の心が引き起こされて、いつも、亡くなった母のことを思い出しながら、あなたたちに比べて私のほうがずっと「悲惨」であり、にもかかわらず私は何の弱音も吐いていないのだと思いました。

 当時、私は常人の中に心を置いて、常人の心で物事を量っていたのです。同修が私に強烈とも言えるほどの口調で、私の足りないところを指摘すると、私は往々にして排斥し、かえって相手に寛容と慈悲の心がないと非難しました。心を静めて、冷静に同修たちが言っていることが正しいのか正しくないのかを判断しようともしませんでした。このような過程の中で私は、内に向かって探し、自分の中に原因があるのではないかと反省し始めると、相手から直ちに許してもらえるようになりました。私は、内に向かって探すべきではないかと突然思い付きました。

 実は、これらの理解は私にとって言えば、常人の心に執着する言い訳になっていたのです。このようでは、どうやって向上できるのでしょうか? ですから、常人の心が衝撃を受けることを恐れず、実は衝撃を受けるのはその背後にある執着だからです。理解を求めること自体が常人の心の一種の現れではないでしょうか? 私は自分の修煉の中の漏れを見つけ出しました。その後、それが分かるようになりましたが、同修たちが私のところにやってきて色々な話を聞かせるのは、実は私に対する信頼だったのでした。

 私は、同修たちといわゆるトラブルに立ち向かってその中で修煉すべきでした。また、私たちは、なぜ同修の話す時の態度をそんなに気にしなければならないのでしょうか? 彼らの指摘が正しいのであれば、自分を改めるべきであり、同修の気持ちは有難いものなのに、なぜ文句を付けて受け入れようとしないのでしょうか? いうまでもなく、頑固な観念に阻害されていたからです。あなたが内に向かって探す時、その観念は徐々に消去されるのです。

 (続く)

 (第三期大陸大法弟子修煉体験書面交流大会原稿)

 2006年12月26日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/10/26/140723.html

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