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観念を放下して心を込めて学法し、学法手段を根本にしてはならない

(明慧日本)師父の新経文『オーストラリア法会へ』が発表されてから、私は法を通読することと法を暗記することについて新しい認識ができました。さらに、私自身が法を勉強する中で法を通読すると、暗記することに対する疑問も解けました。

 ネット上で多くの同修の法を暗記することについての文章を読んで、私は今年に入って半年の間に2回に亘って『転法輪』を暗記しました。法の暗記は、法を通読するより多くの法理を悟ることができました。法を暗記することによって法の勉強がしっかりとできたような気がしました。しかし、いま私は、法を暗記することと法を通読すること自体に差があるのではなく、一切の雑念のない状態で如何に心を込めて集中して法を勉強するかに、その根本的な原因があると悟りました。いくら良いものであっても偏ってはならず、執着の中で行ってはなりません。

 法を暗記するとき、心を込めて集中してやらないと暗記することができません。私は一回目に『転法輪』を暗記してからしばらくの間、法の通読は暗記することより効果がないと思っていました。そこで、すぐさま二回目の『転法輪』の暗記を始めました。しかも、これからの法の勉強はやはり暗記という形式が良いとまで思っていました。しかし、当時はこれこそが法の勉強に気持ちが入らないことの原因であったことに気付くことができず、外に向かって原因を探し、それによってある種の観念が形成されました。実のところ、法を勉強する時、雑念がなく集中して勉強していれば、それは通読だろうと、暗記だろうと、師父が私たちに求めておられる「法を良く勉強すべし」の要求に達することができるのです。

 師父は「法の勉強は形式的なものになってはならず、精神を集中して勉強し、本当に自分が勉強するようにしなければなりません」(『オーストラリア法会へ』)と、説かれました。法を勉強するとき、いつも気持ちが入らず、雑念に惑わされて集中できなくなり、形式にこだわり過ぎて、本当に自分自身が法の勉強をしていたわけではない、その原因は私自身にあり、通読と暗記の差から生じるものではないのだと、私は、ようやく悟るようになりました。これらの執着と正しくない観念によって私は、まるでスポーツ選手のように訓練を強化する方法で、学法の良い効果に達したいと執着したのです。

 本当に常人の心を放下して、心を静めて法を勉強すれば、通読しても効果は同じです。実は、ここ数年の間、私たちはすべての執着と常人の心を放下して法を勉強すると、静かに法の中に溶け込み、体の細胞すべてが大法によって震撼するのを体験したのではありませんか? ですから、問題の根源は、私たちの心の中にあります。

 「法を暗記する」という形式そのものが法を理解することに等しいのではなく、いくら時間をかけて法を勉強しても、それは良く法の勉強ができたとは限りません。法の勉強の良し悪しは、法の内涵に対して理解ができているかできていないかにあります。さらに、至る所で法理を以って自己の思想と行動を律することができるかできないかにあります。

 刑務所の中で一部の「転向」して悪いことをした人たちの中には、『転法輪』を丸ごと暗記できた人もいますが、彼らは当時法の勉強の中で、みなの前で自分のことを偉い、法の勉強のリーダーである、大法責任者と遜色がないなどといった強烈な「自我」の執着心を持って自分自身を証明したいという顕示心が働いたのです。このような人は、たとえ、『転法輪』をちゃんと暗記することができたとしても、本当に法を勉強し、さらに、良く法を勉強したとは言えません。このような人は、一旦邪道に入ってしまうと、かえって、「法の暗記ができる」ということで学習者を引き付けて法理を歪曲し、とんでもない悪いことをするのです。

 ですから、法を暗記するとか、あるいは一日中本を離さず読んでいるとか、あるいは本を何回も書き写したとか、これらの形式は良く法を勉強したのか、あるいは心性の高さとは如何なる関係もありません。法を暗記していない多くの学習者は、真に心を込めて法を勉強しているため、自分を顕示したり、何かを求めたり、自分を実証するなどの執着がありません。求めずに自ずと得られるという状態の下で法を勉強し、その中で絶えず大法の内涵を理解することができ、法を以って自分を律することができれば、トラブルに遭遇しても、しっかりとした正念を持って如何なる個人の執着にも惑わされなくなります。当然ながら、このような学習者たちが大法を全部暗記することができるのであれば、それに越したことはないと思います。

 すべての学習者が意志を強化し、師父が私たちに求めておられる要求に達することができるよう、みなさんに希望します。これは師父が私たちに最も、最も望んでおられることであり、同様に、旧勢力が最も、最も恐れていることです。法の中で修煉して出来上がった強大な正念を持ってはじめて、邪悪を徹底的に解体することができるのです。

 2007年1月11日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/12/18/144912.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/1/9/81559.html