日本明慧
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「他人のために」着々と修めよう


 文/唐山市の大法弟子 至威

(明慧日本)子ども学習者の嘉惠君は、業力による病気の症状に対して正念をもって対応していたのを見て、嘉惠君の母は同修たちと交流するときに、嘉惠君を褒め称えていた。例えば、子ども学習者である嘉惠君が耐えられなかったときに「お母さん、ぼくのために発正念をして!」と言っていたときの話をしていた。それを聞いた私は、「自分自身の正念で初めて変化するものですよね」と言うと、嘉惠君の母も、「これは自分もがんばらないといけないよ」と言ったという。

 その夜、私は突然、佛の慈悲と宇宙人の冷たさを思い出し、党文化の変異した部分も思い出してしまった。同修が助けを求めているとき、なぜ最初の一念が外に追い出そうとしているのか、本当の善とは無私無我であり、同修を助けるかまたは同修の執着の所在を分析することにとどまらず、さらに「彼のことは私のことでもある」との慈悲をもって対応すべきである。

 師父は「慈悲は心から発したものであり、他の人に見せるためのものではありません。また、慈悲は永遠に存在するもので、時間と環境によって変化するものではありません。」とおっしゃっていた。(『2003年ワシントンDC法会での説法』)

 このことから、私はたくさん考えた。私は迫害され、拘禁されている同修のため、真にその身になって考えておらず、惑わされている衆生に対しても、真に善になれなかったことについて非常に恥ずかしく感じた。

 私は大法につくり出された生命であり、私心は私の真念ではない。そして邪悪が存在する口実にもなれないのだ。自分の不足に気づき、修煉の中で必ず直面し、修煉することで取り除かなければならないのである。師父の按配してくださった修煉の道で、着実に「他人のために」修めることこそ神に向かう過程であり、いかなる邪悪にも阻害されることのできない円満成就に向かう帰路であるのだ。

 個人の考えに過ぎないので、正しくないところはぜひご指摘ください。

 2007年2月5日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/2/5/148337.html