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師父が北京で大法講習会を開いた時の神秘的な物語


 文/湖北大法弟子

(明慧日本)私は、師父の大法講習会に参加したことがありません。ただ、私は2006年9月に幸運にも、ある田舎の女性の同修から2000年12月北京の天安門広場に行って横断幕を打ち出したことによって逮捕された時のことを話してもらうことができました。彼女は、北京大興県の体育広場に監禁された時、張維さん(假名)という同修に出会い、そこで彼から師父の運転をやっていた当時、北京での大法講習会を通じて体験した神秘的な話をしてもらったと言いました。ところが、彼女は、学校へ行ったことがなく、教育レベルが低いので張維さんに言ってもらった話の記憶に基づいて、代わりに整理して文章にしました。

 1992年から1994年まで師父は、北京で大法を伝えておられました。私は、師父の大法講習会のために形成したグループの一員となりました。私は、運転ができるということで、幸運にも師父の車の運転を担当しました。当時、師父は北京で何度も自ら講習会を開き、さらに二回の博覧会を加えて、その名は北京の町中に広く知れ渡りました。北京には、ある李氏の大師がいると、ほとんどの年配の人が知っていました。実のところ、当初この任務を持ち掛けられた時、私は、自分がどの前世に徳を積んでこれだけ大きな福に報われたのかと信じられませんでした。ただ、自分が師父のために運転を担当することがこの上なく、幸福で神聖なことだと深く感じました。

 師父は身長が高く、風采が立派で威厳がありました。堂々とした姿で輝いて慈悲に溢れていました。師父は自らを厳しく律し、いつも人のお手本になりました。衣食住や一つの行動にしてもいたるところで、私たち修煉者の模範でした。師父は、服装についてとても素朴でした。通常良く身につける何着かの奇麗なジャケットと下着以外に、他の服は、破れたところもあって縫い直していました。師父は、北京で講習会を開いて、事務が繁忙で、処理すべきことがとても多かったのです。時間を節約するために食事は、ほとんど麺類あるいはカップ麺でした。泊まるところも普通の部屋で、平日の外出はほとんど歩行でした。ただ講習会がある日だけ車を使いました。師父は、私たちと衆生を救い済度するために、力を尽されました。心を尽されました。師父は徳が高く、法力は限りないものでした。人々の病気を治すのに、人が多い少ないに関わらず、手が触れると直ちに病気がなくなりました。時には、何千人もの人々が一堂に集まって、師父の言葉に合わせて、みなさん一斉に足を上げて下に踏み付けたその瞬間に、ほとんどの人の疾病はなくなり、全身が軽くなりました。しかも「山雨来る時は風が楼に満ちる」のですが、師父がちょっと手を振るだけで、雨はすぐ止むのです。師父について外出する時は、傘など持たなくても雨に濡れたことが一度もありません。短い何年かの間に師父は、北京城に数えきれないほどの神秘的な物語を残し、世の人々に称賛され広く伝わりました。

 ここで、私は私自身が身をもって経験した師父の様々な神秘的なできことを紹介したいと思います。

 ある日、私は車で師父を講習会に送る予定があり、道が遠く、時間どおりに到達するために、師父と早目に出発しました。意外にも、市街地の中心部を走る途中、渋滞に巻き込まれました。繁華街での渋滞はとても迷惑でした。北京には様々な種類の乗用車が特に多く、ただ何分の間の渋滞でも、すぐ長い列ができてさらに酷い渋滞に陥るのです。師父の講法の時間が迫ってきて私は落ち着きませんでした。

 私の様子をみて師父は、穏やかに「何か起きたのか行って見てください」と言われました。私はすぐ車から降りて路方に行って前をみたら、なんと1、2キロもある長い渋滞で、いつ解除されるか予測がつかない状態でした。時間どおりに講習会に駆けつけることは、とうてい無理なようでした。そこで、私はすぐ車に戻って師父に報告しました。私は、片足を車に乗せて、もう片足は外のまま、師父に「師父、しばらくは無理だと思います。長い渋滞になってしまいました」と、慌てて言いました。この時、師父は私の耳元に「乗りなさい、乗りなさい」と言われました。私は師父の声に頭を上げました。あ!どういったことでしょう! またたきをするその間に、すでに講習会の入り口に到着していて、師父は2階の講演台の上で私に微笑んでおられるのが見えました。上がって法を聞きなさいという意味でした。手品でもこんなに速いわけがありません。

 私は一瞬、師父が『転法輪』の中の「武術気功」の節の中で説かれた「それから『軽功』を持つ人は、空を飛んだりできるとか、また、別の空間を自由に行き来することさえできる人もいる」という説法が思い出されて、悟りを受けました。実のところ、師父は、私と車を同時にここに運んで来られたのです。当時、私は全身に熱いものが流れているのを実感することができ、心のそこから私たちの師父、私たちの法輪大法は限りなく偉大であると感じました。これらのことは、言葉にして口に出してもなかなか信じてもらえないのですが、実際、私が身をもって体験した真の事実なのです!

 私たちには、この上ない偉大な師父と大法の修煉の指導があり、これらを無上の誉れとして思わない理由が果してあるのでしょうか? 万年に一度あるかないかの貴重な機縁を大事にしない理由があるのでしょうか? 正に師父の限りない慈悲と衆生に対する苦難の救い済度についての正信があってこそ、私は今回また、天安門広場に行って師父について正法を行い、大法を実証する偉大な波の中で悪警あるいは私服警官らの殴る蹴る、警棒と電気棒を使った暴行下でも偉大で慈悲深い師父の加護の下で邪悪から抜け出すことができました。

 2007年3月31日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2006/12/25/145458.html