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人間の観念で師父の法をはかってはならない

(明慧日本)私たちは常人の中で修煉しているので、体のミクロの部分からマクロの部分まで、何世もの間形成されたさまざまな観念が私たちの本性を覆い隠し、私たちのすべてを支配している。衣食住から世界、時間、空間、物質などにたいして、人々はすでに観念を形成している。師父は私たちにこれらの物質を断層的に取り除いてくださっているので、私たちはたえず自分を正しく修めることで、たえずこれらの物質を取り除いているのである。正念を少しでもゆるがせにするとそれらの物質に作用されてしまう。まさに師父がおっしゃっていたように「いろいろな心が捨てられず、そうした多くの心がすでに当然なものになっていて、本人も気づきません。」(『転法輪』)

 最近、師父はたくさんの新経文の中で「最後」という言葉について触れていおられる。これは、私たちがよりよくできるため、警告かつ励ますために師父がおっしゃっているのだと思う。しかし、多くの同修は何かにつけて「最後」という言葉を使いたがる。いつも「すでに最後になったのに…」などと言っている。まるで、すべてはどうでもよくなったかのように、自分自身をゆるがせにすることができるかのようだ。師父の説法を誤解しているのだ。

 時間に執着することについては以前からの問題であるが、いつ終わるのかについて執着していた。しかし、今は「最後」という言葉に執着している。ある一部の同修は「すでに最後となった。まだ何か恐れるものはあるのか」と言って、同修の話を聞かずに、自分自身を実証する顕示心が拡大し、安全について注意せず、自分と同修に損失をもたらしてしまった。

 また、「すでに最後になったのでお金を貯めなくてよい、お金はすべて資料に使おう」と言って家族との間に問題を起こしてしまう学習者がいる。私たちは人間の観念で師父のおっしゃるこの「最後」の意味を理解してはならない。師父のこの言い方自体が私たちに対する試練なのかもしれない。人間の観念で「最後」を理解すると、つまり数日、数か月ないし数年としてとらえている。しかし、これらの時間は、神の目から見るとたった一瞬である。ならば私たちは師父のおっしゃるこの「最後」という言葉を常人の観念で捉えてよいのだろうか。昔の和尚の修煉は、その一生を費やしても少しも怠惰しなかった。しかし、私たちは修煉して10数年しか経っていないのに、もう落ち着かなくなってよいのだろうか。 

 師父は「法輪大法義解」の説法の中で、末法時期の法輪功学習者の心性は和尚よりも高いといった内容の説法をなさったことがある。ならば私たちは自分自身に対して師父の要求に達したかどうか問いかけてみてほしい。資料を作成するためのお金を使っている学習者や、同修の間で争っている学習者は、「最後」に執着して自分自身をゆるがせにしているのではないだろうか。人間の観念の中に希望があると必ず失望もある。希望が大きければ失望も大きくなる。ならば、私たちは修煉の中で、ある結果に執着すると、この結果に動じやすくなり、その結果を生み出せなくなるとき、正念が弱くなり、人心が起こり、よく実行できなくなりがちである。

 個人の悟りにすぎないので、私たちは着実に自分のやるべきことを行い、すべての心を放下し、着実に師父のおっしゃった三つのことを行い、結果に執着せず、すべてはこの中にあるのである。

 2007年4月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/4/25/153438.html