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幸せな生活を追求する根本的な執着を放下する


 文/北米大法弟子

(明慧日本)師父は経文『圓満成就に向かって』の中で、初めて修煉者の根本的な執着について言及されました。当時私は内に向かって探して、自分には円満を求める心と次元の向上を求める心があることが分りました。その後、正法修煉の道のりでだんだんと大法弟子が衆生を救い済度する偉大な使命を認識でき、円満と次元に対する執着はずっと前に放下しました。自分ではすでに根本的な執着がないと思い、熱心に他の同修を助けて彼らの根本的な執着を探しました。

 私にはずっと幸せな家庭がありました。修煉してから、自分では情に対してすでにとても淡々となったと思いました。しかし、邪悪の迫害のため、昨年私は仕方なく家族と別れて、一人だけ海外に残ることになりました。この間、常に孤独な思いが出てきて、実は私にはずっと幸せな生活に対する執着があり、ただ常人ほど強烈でなかっただけであり、以前はずっとそれを所有していたため、ずっと察知できませんでしたが、現在完全に失ったため出てきたと意識できました。普段とても忙しいときは何も考える暇がありませんが、一旦少し暇ができると、「まあ、夫、子供、親、たとえ1人でもそばにいればよいのに」という思いが浮かんできました。しかしあいにく一つも実現できません。特に同修らが一家団欒する様子を見ると、心の中はさらに悲しくなりました。

 一度、家族から娘の写真を何枚か送ってきました。娘の幼い小さな顔はとても可愛かったです。しかし目には悲しみ憎む表情が現れていて、まったく幼い子供がもっている憂いも心配もない表情ではありませんでした。私は突然心が痛くなり、涙が絶えず流れて出てきました。私は師父の写真の前に跪いて、師父に「師父、私は本当に耐えられません。一度思い切り泣かせてください」といい、ちょうど声をはりあげて大いに泣こうとした時、突然ドアをノックする音が聞こえました。私が慌てて立ち上がり、ドアを開くと、同修のおばさんが新聞を取りにきていました。おばさんは新聞を取った後、すぐ帰らず、暫く話してから帰りました。ドアを閉めて後、私は考えました。またつづけて泣く必要があるか、と? 突然自分がつまらないと感じ、私が自ら情から抜け出せず、思いにふけらないように、師父がおばさんを来させたと分りました。

 私は、情は邪悪が邪魔する一種の方式であると分っています。しかし私を邪魔できたのは、私にまだ放下されていない根本的な執着があるからです。私の頭には師父が『圓満成就に向かって』(精進要旨・二)の中で説かれた「それでは根本的な執着とは何だろうか? 人間はこの世で多くの観念を形成し、それに振り回され、あこがれのものを追求している」「人間がこの世でこれらの心をもって美しい追求と願望にあこがれるのは間違いではないが、修煉者としてはもちろんそれではいけないのだ」が浮かんできました。

 法理上分っていましたが、しかし放下できない情により、私はこの関を通るときにだらだらしました。ずっと最近になって、同修からの心性の試練に遭い、やっと夢から目が覚めたようです。人間世界で温情に対する渇望は、私に無意識の中で同修の情を唯一の感情の寄せ場所としました。だから、同修からの傷つけは私の心をえぐり骨身にこたえる痛みを与えました。しかし、実際に傷つけられたのは人心であることを私も知っています。羅漢は常人の中のすべてのことをまったく気にしないのではないでしょうか?

 その日の週末、ニューヨークの親戚がどうしても私に彼女を同伴してある家庭パーティに参加するように要求しました。私は情実のために彼女に付き添って向かいましたが、それはキリスト教のパーティでした。パーティの中、あの人たちは私に対してあれこれと配慮してくれ、加護してくれ、彼らの快楽と穏やかさを感じさせ、彼らは加入することを望みました。私は痛しかゆしで、このことは私に、もともと幸せな生活に対する憧れはそれほど根が深くて容易に動揺しないものだったと意識させ、そうでなければ旧勢力はこの手段を使い、同修の態度でわたしの大法に対する正しい信念を動揺させようとしなかったはずです。私は決して再びこの根本的な執着を放任してはいけないと思いました。この根深く形成された人間の理は必ず取り除かなければならず、さもなければどうやって良く歩み、この最後の道を正しく歩けるでしょうか?

 学法を通じて、私はますますはっきり分りました。大法の修煉はこの人類社会の現実の中で、人のあらゆる憧れ、執着を放下させ、徹底的に内心から自分を向上させ、真に自分を変え、理性的に、無条件に大法に同化することであり、現実を避けること、外在する環境の変化、あるいは時間が経つに従って、あるいは何かをしたから目的に達することではない。師父の慈悲なる済度に感謝し、私に一つもう一つの修煉の中の荷物を意識でき、取り除き、真に清浄な状態で家に帰る路を歩かせたことに感謝します。

 2007年4月30日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/4/23/153276.html