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慈悲で間隔の壁を溶かす


 文/海外大法弟子

(明慧日本)明慧ネット2007年4月11日の文章「大法弟子の間を隔てている『壁』—小弟子が見た他の空間の光景」(http://jp.minghui.org/2007/04/12/mh152368.html)を読んで、私は心がとても重くなってきた。それは私達の地区では学習者は学法が終わったら、カバンを持って家に帰ってしまうか、または簡単にやるべき大法の仕事を相談するだけで、基本的に心を開いて、法に基づいて心性を向上させる交流がないからであった。数年間ずっとそうだった。

 みな顔をあわせると、なるべくトラブルを避けていて、表面上は穏やかだったが、みな自分の考えを持っていた。全体が向上できる環境が整っていなかったため、1人の学習者が邪悪に人身を奪われていく危険に直面したとき、同じ都市にいる同修はその情況を知っている人があまりなく、彼女のために正念を発する人もなく、とても大きな損失を招いてしまった。

 痛ましい教訓は私を呼び覚ました。私は学習者の間の隔たりを突き破る決心をした。その前まで、個別な協調者は私に対する見方を学習者の中で、広く散布したため、私は孤立状態に置かれ、心の中で多くの心配が生じて、おじけづいていた。まもなくある学習者の提案により、学習の場所はその逝去した同修の家から我が家に移ってきた。みなこの提案に同意した。

 最初の2カ月間は、以前の通りだった。時間になるとみなカバンを持ってきて、顔をあわせると微笑んで挨拶をし、勉強が終わったら、またカバンを持って帰った。帰る前も微笑んで挨拶をした。帰るとき玄関はとても騒いで、混乱状態になり、部屋に残って交流しようとしていた学習者もかき混ぜられて不安な気持ちになり、すぐ帰ってしまった。私は多くの方法を使い、とても多くの考えもあって、一生懸命自分を修めたが、どうしても集団学法の交流の状態を転換させることができず、本当に苦しく思っていた。明慧文章の中のあの小弟子が見たのは、法がある境界で彼に見せた真相であった。「壁は非常に厚く、ハンマーで砕こうとしてもびくともせず、ハンマーが粉々に砕けた」。私は自ら現実の中での学習者の表現を体験していた。

 学法し、情況を変えようとする過程で、私が意識したのは、自分に慈悲の心を修めるよう要求することだった。まさに自分が良く修めていないから、全体の場に影響が出たのだ。このような間隔こそ、旧勢力が按排したもので、目的は学習者らが全体を形成することを破壊するためであって、私たちが更に良く衆生を救い済度することを破壊するためであって、徹底的に取り除かなければならない。

 この文章を見てから、私はこの壁を打ち壊そうと決心した。そして自分を修めることから始めた。翌日私は学法の中で、「佛は善であり、これは間違いのないことです。しかし、そのような慈悲は一種の偉大な佛法の力量の現れです。いくら良くないもの、悪いものであっても、鉄鋼のようなものでも佛法の慈悲の威力の前で溶けてしまいます。ですから、魔は慈悲を見たら恐れを感じ、本当に怯えてしまい、溶けて消えてしまいます。決して人間が想像しているようなものではありません」。(『米国西部法会での説法』)

 これは私にこれほど大きな慈悲心を修めてこそ、初めてこのような間隔を溶かすことができると思わせた。そして私は自分を修めていき、再びあの壁が厚いかどうかと思わなくなった。

 そして、私は正念を発する時間を延長して、あの壁を取り除いた。連続して一時間正念を発する中で、数え切れない私を邪魔する光景が私の頭に映ってきた。ある人は誤解の中で憎しみをもって私に凶悪な言葉を投げてきた。ある人は私を取り調べていた。ある人は私が大法の仕事をして、彼の「官職」を奪うことを恐れていた。ある人は自分の担当する仕事が出来ないとき、私がやったからだと大騒ぎをしていた。ある人は私がみなに多く交流するように提案したため、私に冷たい顔をしていた……などなど。しばらくあらゆる体験が浮かんできた。

 しかし、私はすでに法理がはっきりしていたので、ただ慈悲の心で、他でもなく自分を良く修め、邪悪のすべての間隔を徹底的に取り除いた。私は「あなたが私にどんな態度であっても私は慈悲の心であなたに対する。あなたがどんな態度であっても、私は心を開いてあなたと交流する。あなたがどんな態度であっても、私は法を持って自分を要求する」という決心をした。これらの私の正念を邪魔する光景が現れるとき、私は内心のあの固い決意と慈悲を感じた。

 これは10年間の修煉によってもたらされたものではなく、生命の億万年の錬磨によるものでもなく、法が与えてくれた力量だった。真に磐石のように何も動揺させることができないものだった。あれらの光景が浮かんできたら、去り行く雲のように、浮き浮きして、自らまもなく溶けて散って行った。正念を発すれば発するほど、頭が冷静になり、正念も強大になった。

 夜、集団学法が終わった後、みな自らニューヨーク法会に参加した体験と目下行うべき一つの重要なプロジェクトについて話し合い、座がしらけることやすぐ家に帰ることもなかった。私も交流してどんな効果にいたるか考えたこともなく、その概念もなく、ただ学法と交流だけを考えていた。協調者がみなに、ある重要なチームをこのプロジェクトに参加させない、という学会の決定を知らせたとき、みなとても驚いていたが、しかし以前のようにお互いに見ていて、誰も話をしないか、あるいは小さな声でひそひそ話をすることはなかった。大多数の同修は単刀直入に自分の意見を述べ、誠実、率直で、法理に基づいて分析し、本当に今までなかった活発さと純正さだった。本当に心が触れあい、法理上向上でき、交流すればするほどみなはっきりと分ってきた。自らこのような変化をみて、私は内心で非常にはっきりとし、非常に感動した。師父に対する感謝は言葉に表せなかった。

 2007年5月1日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/4/16/152868.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/4/28/84996.html