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量る基準を再び悟る

(明慧日本)師父は「量る基準を再び論じる」の中で「どうして学習者の修煉状況を量る時、その人の心性だけを見るという師父の話を聞かないのだろうか?」とおっしゃっている。最近、同修の書いた交流文章を読んで、私はこのことについて更に深い認識を持つようになった。大抵、以下の状況にまとめることができる。

 一、功能の数(天目が見えるかどうかも含める)をもって量る基準とする。師父は「功能は本より小術 大法こそ是れ根本」とおっしゃっていた。人心の功能に対する執着が原因である。

 二、同修の受けている迫害の程度をもって量る基準とする。受けた難が大きければ修めた次元が高いと思い、さらにこれらを自分の自慢としている。また、ある認識は、迫害される程度が重ければ重いほど問題があり、修煉がよくできていないという考えである。この二つの極端な認識はいずれも人間の角度から問題を絶対化しすぎて、正法と個人の修煉の関係を認識できず、旧勢力の迫害を試金石とみなし、中にはヒーロイズムの感情も入っていて、旧勢力を徹底的に否定することを忘れ、旧勢力を試金石と見なしているからである。これは求めているのではないか? これは旧勢力の迫害に対する賛同ではないか?

 三、これまでにどれほどの仕事ができたのか、または周りへの影響の程度をもって量る基準とする。どれほど大きな仕事ができたのか、どれほど大きな影響をもたらしたのかによって、修煉の次元の高さを量るという認識である。これは、仕事に対する執着心であり、人間の考え方である。自分の心性を高めないで、もっぱら仕事をしているだけでは、大法弟子とは言えない。

 人心の角度で修煉と三つのことを認識すると、さまざまな法から離れた複雑な現象を引き起こすものである。法に基づいて問題を認識し、学習者の心性を量る基準として、そして修煉者の正念をもって問題に対処できれば、それこそ本当の量る基準であり、法を正す時期の大法弟子の基準である。

 2007年5月4日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/5/4/154089.html