日本明慧
■印刷版   

子供に聞いたその言葉は自分にも聞くべきである

(明慧日本)私の子供は小学6年生で、毎晩私と一緒に学法をするようになって半年が経った。子供は毎日学校に行って、帰ってから学法する、以前と何の変化もない生活であるが、私の方はかえってさまざまな執着を取り除くことで精いっぱいであった。そこで私は、まだ修煉しているかと子供に聞くことにした。

 ある日、子供が学校から帰ってくると、「毎日学法して法の要求通りに行ったの」と聞いた。子供は「やったよ」と言うと、「それなら、学校の中に何かにぶつかったとき、以前と違う考え方や行動に出たことはあるの」と聞くと、子供は「あるよ、同級生がけんかするのを見て何もしなかった。ぼくはその間の因縁関係を知らないから。以前のぼくなら必ず何とかしようとしたけど、いつも悪くなる一方だった」と答えた。このことはあまりにも初歩的すぎると思った私は、続けて聞いた。「心を大きく揺るがすような大きなことはあったの」と聞くと、子供は一生懸命に考えてなかなか答えようとしないのを見た私は「関を乗り越えているようなものは」と聞くと、子供は頭を横に振って「ないよ」と答えた。これには少し失望して、これ以上聞かないことにした。

 翌日午後、子供がサッカーで遊んでから帰ってくるとき、左手をけがして痛いと言った。「そのとき、どのように考えたの」と聞くと「ぼくは何も考えなかった」と子供は言った。そこで私は「自分は大法弟子だ、法輪大法はすばらしいと唱えたの」と聞くと、子供は「すごく痛かったので何も思いつかなかった」と答えた。少し残念だと思いながら、「もしこのように唱えたら何も起こらなかったでしょう。これこそが試練よ」と言うと、子供は私を見つめながら何も言わなかった。

 三日目になっても、私は子供の手をずっと観察し続けていた。しかし、この子はいつものように遊んでいたので、まるで手はけがをしていなかったようだった。このことは、まるで私への試練のようであった。

 同修と交流することで、子供のこの難は私の一言でできたものではないかと悟った。考えてみれば、私は着実に修煉せず、外部における変化にばかり注目し、細かいことばかり気にしすぎて、自分の認識と考えを重視し、自分が正しいと思い、しかも自分の執着にしたがって口を修めなかった。さらに、考えの中に相生相克なので修煉には必ず関門があるという旧宇宙の理を認めることで、実質的に旧勢力の按配を認めることになってしまった。

 私は突然、子供に「毎日学法して法の要求通りに行ったの」という質問は、自分に聞くべきだと悟った。子供の修煉の問題について、私は自分を大法弟子として考えていなかった。法を学ぶことの重要さについてさらに理解できた。

 2007年5月31日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/5/29/155853.html