日本明慧
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二言三言:交流は修煉の代わりにはならない


 文/大陸の大法弟子

(明慧日本)どんなものでも度をすぎると正しくない方向へ走りやすい。交流をあまりにも頻繁に行うと交流に対する執着、依頼心が生じやすい。ある人は問題にぶつかると先ず思いつくのは、心を静めて学法し、冷静かつ理知になって自分に向けて探し、法に従ってどうすべきかを考えようとせず、自分が良く修めていると思う1人、もう1人の同修と交流し、彼らがどのように言うかを聞き、交流で自分の学法が足りないことを補おうとする。

 師父は「心を修めなければ誰も成就できるはずがありません」(『転法輪』)とおっしゃった。修煉の道のりはそれぞれみな異なり、誰も自分の代わりにはなれない。他人がどんなに良く悟ったとしても、それは自分の修煉に対して参考になるだけにすぎない。交流は学法の代わりにはならず、修煉の代わりもならない。

 師父は「現在、行わなければならない一つの重要なことは、如何により多くの衆生を救い済度するかということである」(「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」)とおっしゃっている。これは私たちが心を込めて先ず最初に行うべきことであり、現在の交流もこのことをめぐって行うべきである。個人の学法が足りないことは自分で補うべきである。あまり多くの時間、精力をかけて交流し、更に多くの同修の注意力を払わせないほうがよい。

 2007年6月4日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/6/4/156169.html