日本明慧
■印刷版   

正念それとも人心

(明慧日本)最近、長春市では交流会の最中に、30数人の弟子が邪悪に連行されるという悪質な事件が立て続けに起きた。また数人の弟子は警察から嫌がらせやいじめなどを受け、路頭に迷ったり、あるいは不法に連行されたりしている。この件について、私個人の考えを述べ、法に適合しないところは慈悲に指摘していただくよう望んでいる。

 一人の大法弟子として、いかなる事においても、内へ向けて自分を探し、心の動きを見つめ、自分の一思一念をも法に照らしながら制御しなければならない。

 この事を初めて耳にした時に、まず、驚いた。法を正す進展が今日に至り、邪悪の要素が殆んど取り除かれ、残り僅かな時期に、どうしてこんなに大きな迫害が起きたのか、きっと彼らの心性に漏れがあったに違いないと思い始めた。それらの同修に対しても、○○さんは一貫して、大法から逸脱している、しかも仕事をする心が強い、自分を実証している。○○さんは功績を求める傾向がある、名利心もあり、それが実にいつも非常に強い。○○同修は実修できていない、人を師にしている等の観念も抱き始め、愚痴と非難ばかりだった。特に不法逮捕された学習者と繋がりのある学習者も、邪悪に不法連行されたのを目にして、更に心を静める事ができなくなり、気掛かりで焦っていた。自己の心性を守ることができなかったために、他人まで道連れにしてしまう同修に対し、恨みをもつ等、人心が湧いてきて、他人の行いに目を向け、ひいては自分の方が正しいと思い込んでしまっていた。同修との交流を通じ、長春市でもはやこんな大きな事が起きたからには、もう出来るだけ早くネット上で皆と交流し、至らない処を見つけ、教訓を総括し、全体に向上していかなければならない時期が来たと感じた。しかし、常に他人に目を向け、外へ求めたり、事実に即して話したりしており、心性を高めることが出来なかった。交流文をいくら書いても、食い違ってしまうし、根本的に探る事が出来ず、何度も交流文の発表を断念した。最後、心を静めて内へ向け探した所、この件に対して、初めから自分自身を修めていなかった事がようやく分かり、他人の行いばかり追及して、人心が引き起こされ、修煉者として持つべき穏やかさと慈悲心を失っていた。

 もしどんな事においても、心が動じなければ、邪悪を抑制する役割を果たすことは出来るはず。もし、心が動じたら、邪悪に迫害する口実を与えることになると悟った。師父は「全ての情は魔であり」の法を説かれたことがある。その法を通じて、私は同修に対する愚痴、非難、不信感、焦りなどの気持ちは全部人心、人情であり、何も役に立たないと悟った。同修の愚痴を言い、非難をするのでは邪悪が彼らを迫害することを認めるも同然ではないか。その時、邪悪側に立っているのではないか。邪魔な働きが生じてくるのではないか。神の正念、寛容と慈悲だけが邪悪の解体や同修の手助けをすることが出来るが、人心は永遠にプラス効果を齎もたらすことはできない。

 もちろん、同修の問題を指摘するのはよくないのではないが、問題は、そこで、修煉者の慈悲心か、それとも人心でもって対処したかである。認めるのは同修が修煉し法を学んでいく中で正される事か、それとも、邪悪の所謂「按排」と「試練」であるかだ。どんな事に遭っても、自分の一思一念を法に照らし合わせ、内に向けて探し、自分をすべて良く修める事が出来れば、邪悪の身を寄せる場所もなくなってしまう。毎回邪悪の大法への破壊、大法弟子への迫害は自分を良く修め、邪悪を解体し、真相を明らかにし、衆生を済度する契機と見なして、最後の聖なる道を神の正念で確固として歩んでいこう。

 2007年6月5日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/5/15/154819.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/5/27/86153.html