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自発的にごみを一掃する

(明慧日本)ある同修は国外の真相調査団の進展を見て、とてもうれしく思い、甚だしきに至っては毎日、情報を待って、法を正す進展を推測し、直接師父の法を正す勢いがやってくるのを待っている。様々な環境の中で外に向かって探す心理は、ほかでもなく深刻な利己的現われである。考えてもみてください。例えば、あるごみだらけの部屋があって、今、師父がこられると教えられた時、あなたはどうするのか? 師父が自分で片付けにいらっしゃるのを待つのか? 他人が整理しにくるのを待つのか? 部屋を自分できれいにするのか?

 『転法輪』の中に師父のこのような説法がある。「皆さんに例を一つあげてお話ししましょう。釈迦牟尼の若い頃のこんな逸話(いつわ)があります。ある日、釈迦牟尼は湯浴(ゆあ)みをしようと思って、森林の中で、弟子に浴槽を掃除させました。弟子がそこへ見に行くと、浴槽の中に虫がいっぱいいます。掃除するには虫を殺さなければなりません。弟子は戻って来て釈迦牟尼に、『浴槽の中に虫がいっぱいいます』と言いました。釈迦牟尼は弟子の顔を見ずに、『浴槽をきれいに掃除して来なさい』と一言だけ言いました。弟子が浴槽のところに行って見ると、手のつけようがありません。手を下せば虫を殺すことになりますので、一回りして再び戻って来て釈迦牟尼に、『尊師、浴槽の中は虫がいっぱいで、掃除すると虫を殺すことになります』と言いました。釈迦牟尼は彼をちらっと見て、『お前に掃除させるのは浴槽なのだ』と言いました。弟子ははっと悟って、直ちに浴槽をきれいに掃除しました」。

 上記の弟子の行いは、現在、法を正す中で私達一部の大法弟子の現れとよく似た部分があるのではないか! 衆生を救うことは私達がやって来た時の大きな願望である。私達は時間の緊迫さを認識すべきで、力の限りを尽くして精進すべきだ。くれぐれも決心のつかない浴槽を掃除する弟子にならないように、更にこの弟子の悟性にも及ばない弟子にならないようにしよう。

 私達は常人に希望を託すことがとても多くあったと言える。もし師父が全体の修煉環境を見守っていなければ、私達の今の境遇はどんな様子になったのかぜんぜん分からない。

 誰が衆生を救っているのか? 大法弟子なのか? それとも常人の中で大法弟子への反迫害を支持する人なのか? 学習者の中にある本末転倒した観念は、深刻に法を正す進展に影響を与え、師父にたくさんの余計な面倒を加えた。私達が今受けている迫害は、私達がそれ黙認したため、邪悪は私たちの隙(弱み)に乗じ、それによって邪悪はいまだに堂々と存在しているのではないか。時には甚だしきに至っては世間の人をも毒害している。たとえば、邪悪が経済的に迫害する時、私達が思うのは、私達の境遇が困難になっていく中で、邪悪が機会に乗じて、私達の財産を略奪して享受しても、私達は心安らかになる。この時、邪悪の最大の口実は:大法弟子は私達がこのようにすることを許したのだ!

 私達は今、師に従って法を正しており、一部の方面でやったことは、甚だしきに至っては上記の浴槽を掃除する釈迦牟尼の弟子にも及ばない。師父はすでにすべての法を私達に説かれ、すべての功能の使用について指示を与えてくださったが、私達は時にはやはり変異の観念の中で止まっていて、己を知らず、今なおいくつかの地区では邪悪のきりのない迫害があり、深刻に世間の人の済度に影響を与えた。

 それで私達は真剣に自分を大法に照らすべきではないか:どの変異の観念が今のこのような迫害環境に助力したのか? これはもともと手のつけようのないごたごたの環境であるという同修がいるかもしれないが、しかし師父はすでに私達に正しく帰させるように教えてくださった。私達が行ったことはどうなのか? 私達自身の修煉はどうなのか?

 師父は法を正し、大法を実証し、威徳を樹立する機会を弟子に残された。師父の考えは天意であり、私達は天意に沿って行うべきである。師父が教えられた三つのことをより良く完成する中で、自分の世界を成し遂げよう。師父は邪悪の迫害を承認されないが、私達ももちろん同じく許すべきではない。私達が幾重にも下に下りてくる時、旧勢力の束縛を受けていくつかの変異の観念が生じたが、師父は大法で私達の心の深い所の知恵を開いて下さった。私達は十分に邪悪を全滅すべきである。

 2007年6月24日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/6/21/157281.html