日本明慧
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努力して法をよく学んでいない問題点を見つけた


 文/大陸農村の大法弟子

(明慧日本)病気治療のために入門した場合以外に、この根本的な執着心を見つけ出すのはとてもやり易いことではない。なぜならそれはこっそりと隠れようとしていて、あなたがよいと思うことの背後に隠れているからである。私は前後して約2、3年間これを探し続けた。最近、同修と交流する際に、彼は、当時まさに彼の父の病気治療のためだったが、自分もとても良いと感じた、と言った。当時私はこの「良い」という言葉に疑問が生じ、それほど純粋なのか、と思った。われわれは本来旧宇宙に属する生命であり、いくら良いと言っても18Kの金だった。人は迷いの中、邪党文化の中で、数Kしか残ってない。私の唯一の趣味は本を読むことだった。私は本と多くの人生の不遇を過ごし、同時に本は農村の人が知らない知識を教えてくれた。私がまたもや悩んでいるとき、大法と巡り合い、当時これはあらゆる本よりも良いばかりか、また正果を得られ、苦難から解脱できる、と思っていた。

 私はこの良いという文字から話をする。良い、とは私の好み、私の観念、習慣、私の人心に符合するものである。師父は本を多く読みなさいと教えてくださった。私も少なからぬ本を読んだ。難しいところはないと思い、同時に「まだできる」という言葉を原動力とした。最近、一篇の小説が人心を動揺させた。明慧週刊である同修は、自分は心が動じていなかったが、他の空間で見たもの、輪廻の物語にはとても興味があり、これも人心だと語っていた。私は自分にもこの心があることに気づいた。毎回、週刊や正見ネットの文章を読み終わったら、まだ十分見ていないと思い、また次回を待ち望んでいた。どうしても読めるものがなかったら、また『転法輪』を読むことにしていた。

 昨日は時間通り刊行物を読むことが出来ず、何とも言えない気持ちになった。今朝の「何とも言えない気持ち」という心について探したら、なんと自分にはまだ入門した時のような本を読む習慣が残っていたことに気づいた。ただ「まだできる」という原動力が追加されていただけだった。つまり、精神のより所、新奇の追求、大法を利用して自身の解脱に至る、など個人のための一つの根本的な執着心だった。どんなに恥ずかしくて恐ろしい、大法を利用する人心、私心なのか? まるで師父のおっしゃったように「心が浮き草のように、風が吹くと動いてしまう」(「小説『蒼宇劫』について」)。胡頃はまだ本当に法の中に根を置いていなかった。

 一部の同修は、私があれほど多くの大法の書籍を読んでいるのに、表面上は自分よりそれほそ優れているわけではない、と思っていたという。しかし、見たのは法であり、私は見失わなかった。また、自分の不足、他人との距離を急いで探している。ただ一時的に問題がどこにあるかを探し出すことができなかった。人が何を必要とするかは自分で決める。これは宇宙の理で、ただ内に向かって探し続ければ、必ずある日、法は私がどこで誤っているかを教えてくれ、残っているのはその心を取り除くことだけである。

 私は根本的な執着、人心を取り除いた後、本を読むことが好きな長所を発揮すれば、さらに純粋に学法を多くし、良く法を学び、正念で人を救うことを自分の務めとすることができると思う。

 2007年6月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/6/24/157409.html