日本明慧
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同修よ、必ず私に教えて下さい

(明慧日本)今、私は外で流離している。警官が私を捕まえにくることを知った当時、私は2人の同修に電話をかけて、私のために正念を発してもらうようにお願いした。その中の1人の同修は「あなたは自分に向かって探していない」と言った。そこで、私はものを片付けながら、自分を探し、このような事は発生すべきではないと思った。師父の保護と、私の正念のもとで、夫が落ち着いて警官に受け答えしていたので、警官は私を発見できなかった。表面上では何の損失もないようだが、結局家の人にとって一定の圧力になったし、同修の法を実証することにも一定の圧力が形成された。自分を深く探してみると、当時同修と協力して資料点を作る心が焦っていて(同修に告発されたのだ)安逸を求める心が多かったようだが、しかしまだ根元ではないようである。このようにして、自分の最も深い問題を探し出せない状況下で、私は家を離れた。

 私は今「自分を探す」ということについて、明慧ネットを通じて、同修と交流したいと思う。

 もともと、同修が一旦捕まえられたり、連行されたりすると、最も多く議論されるのは、彼(彼女)のどこそこは法に従っていないとか、ここは間違いをしたとか、そこはよく行なっていないなど。同修よ、私達はどの心を抱いてこれらの話を言っているのか?

 ある時、明慧ネットの文章を読んで深く感銘を受けた。別の同修と交流したこともある。同修は何か問題がある時、直接、慈悲かつ穏やかに教えてあげたほうがいい。相手がどんな態度であるかに関わらず、私達はただ自分を守るだけではなく、同修に対しても責任を負い、法に対して責任を持つ態度でなければならない。更にかげで気軽に議論すると、よくない物質を放出する以外に、師父の説かれた口を修める法にも合っていないし、更に同修のために責任を負っていない。私達は本当に同修に対して責任を負いたいならば、たとえ同修はその時受け入れてくれなくても、あるいは理解しなかったとしても、私達も彼のために正念を発して、彼を内に向かって探させるように加持して、法の上から、彼を早く高めさせるようにしなければならない。

 次のことは2回の重大な教訓である。ある同修はいつも文句を言い、心が穏やかに話すことができず、発正念の時も居眠りをして、法を学ぶとすぐ眠くなった。私達は二度ほど軽く注意してあげた後に、あまり変化が見えないため、私達は続けて言うのを放棄した。結果としてこの同修は邪悪に連行された。連行された後に、更に勝手気ままに論じる同修がいて、彼女は捕まるべきだといった。私は、その時彼女が目を覚ますまで重く注意してあげず、「善の心と道理」を用いなかったことに、本当にとても心を痛めた。わたしは責任を尽くして同修が法の上から高まるように助けなかった。

 もう一人の同修は、仕事の圧力がとても大きくて、何百人分の資料作成を担当して、更に同修を組織し集団学法させ、また一部の技術面での仕事も担当した。そのために彼は毎日外へ出ていった。私達がこれらのことに言及する時、この同修は他人のために焦る(動かされた)心があることに気づいた。現地は全体に対する不協調になり、一部の同修に対する愚痴があり……。その時私は彼がとても苦しんでいると感じるだけで、常人の立場から言うと、理解することができたが、しかし、法に則っていないと感じて、言えなかった。彼は私よりよくできて、担当する仕事の量は私より多くて、私が言う資格がないようだった。結果は何日間も経たずに、この同修は捕まえられた。これは私の心の中のとても大きな痛みになった。もしその時そんなに多くの人心がなければ、タイムリーに同修のために指摘してあげたら、今日のことはなかったかも知れない。

 同修よ、もしあなたが私の執着に気づいたら、必ず私に教えてください。私達は修煉に対して本当にとても厳粛に対処しなければならない。もしどこかに執着があり、漏れるところがあれば、必ずベストを尽くして直さなければならない。ただ長期にわたり身につけた観念があるため、私達は自分をはっきり見にくくなった。しかし、第三者にははっきり見えている。同修がいったん法に照らして問題に気づいて私達に教えてくれたら、それはどんな慈悲なことだろうか。私達は「同修」なのだから。

 2007年6月26日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/6/23/157414.html