日本明慧
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同修に不平を抱く心を取り除くことができた

(明慧日本)修煉に入門する前から私はずっと理屈っぽい人だった。自分の過ちを認識していればそのミスを認めるのだが、もしそれは他人の問題だと分かっていたら、非常に不愉快になり、その人に対して偏見を持ち始め、もう二度と話したくないとまで思ってしまうのであった。

 修煉し始めて、この心が淡泊になって、常人が仇のように悪を憎むような心理は無くなったが、自分とトラブルが生じた人に思わず内心から距離を置いてしまうことは明らかであって、不愉快を感じるのだった。この心を取り除きたいのだが、容易ではなかった。しかも、現在、対立は得てして自分と修煉者の間で現れているのである。

 今日、法を学び終わった後、突然、自分の戸惑いを制御したものに気付いた。それは、以前、同修が思っていたほど他人を配慮することができないのを見たときに内心で不平を抱いてしまい、同修が私の修煉における不足を私が思っていたほど指摘してくれなかったとき、私は執着心のため良く実行できなかった。その後、自分の間違いについて考えているときに、内心ではさらに不平を感じるようになった。それでも同修と言えるのか? 同修の執着を見てからも、その同修が自分の問題のあるところを見つめ直すよう誠意をこめた手助けもしないで、その同修が執着に妨害されて行いが不十分なのを見てみぬふりをして、大法弟子の「三つの事」を行う貴重な時間を無駄にしてしまった。

 冷静になって考えると、これらは皆、自らの為、私の為を基として、真に内に向かって探しておらず、自我を捨てていなかった。師父は『転法輪』の中でこのようにおっしゃっていた。「心性とは何でしょうか? 心性は、徳(徳は一種の物質)をはじめとして、忍耐すること、悟ること、捨てること、すべての欲望や執着心を捨てること、さらに苦しみに耐えることなどなど、多くのものを含んでいます。人の心 性の各方面を全面的に向上させて、はじめて本当に上昇することができます。これが功を伸ばす肝心な要素の一つです。」

 実は、私の不満はまだ自分あるいはある同修の個人修煉、向上に基づいて生じたものに過ぎない。個人的な向上に損失を被ったと思ったのだが、実際、正法時期の大法弟子は皆一体であり、すべての大法弟子は宇宙大法「真、善、忍」における一粒の粒子である。たとえ、一人が妨害されることになっても、彼自身の個人修煉に影響を受けるだけではなく、衆生を救い済度することまで影響するのだ。これは法を正すことを妨害しているのではないか、自分の至らないところを随時指摘してくれなかったことで同修を責めるのはよくないではないか、と今は理性を持ってはっきりと認識できた。これは個人修煉、得失の問題ではない。同修が指摘しない問題でもない。邪悪が妨害しようとし、邪悪が大法弟子のまだ取り除いてない心を利用して「三つの事」を妨害していることがこの問題の根源である。

 真に法に基づいて法を認識するとき、真に自分が宇宙正法の中に溶け込んだとき、真に生命の源の善の貴さを認識したとき、そして師父がすべての救える生命を救い済度するために代価を払ってくださったことを認識したとき、私の心の容量は知らず知らずに広がっていくのがわかった。正法修煉と個人修煉の違いを知るにつれ、私の同修に対する不平を持つ心が無くなったのである。

 以上は個人の認識であり、適切でないところは慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年7月3日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/6/22/157285.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/7/2/87275.html