日本明慧
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人の観念を突破すれば、神の一面が顕れる

(明慧日本)今朝、法を学んでいるうちにすぐ眠くなってしまったが、私は邪悪の妨害を許さず「滅」を念じた。念じ終えると、少しの間だけ元気になり、また眠くなってしまった。私は再び「滅」を念じ、念じ終えると暫く元気になり、また眠くなり、再び「滅」を念じた・・・・・そうしていると、元気になったり眠くなったりした。これではシーソーゲームではないかと思い、これはまずい、何の心が作用したのか探さなければならない。さもなければいつになっても突破できないと思った。

 法を学んでいる時、眠くなるのは、私だけではなく、たくさんの同修がこのため苦悩し、かつ困惑もする。どうやって突破すればいいのか分からない。さらに深刻なのは、私の一番身近な同修が拘留所で手錠を掛けられてもいびきをかいている。さらに学法や発正念は言うまでもなく、今まで突破できなかった。彼はとても苦悩し、施すすべもなく「先祖がそうだったので、遺伝だ」と言った。

 私は遺伝ではなくても、毎日、朝になると眠くなってしまう。眠くなると、私の頭に自然と一つのシーンが出てきた。早朝、1人の子供が草刈りで疲れ、天気が良いため、暑くて木の下で一服し、少し坐っていると眠くなり、木にもたれて寝ようとしている。それは幼い頃の私なのである。家が貧しく、草刈りで金もうけをするために天気が良くなると、父母は私を草刈りに行かせた。このシーンが出てくると、私は幼い頃の習慣を変えるのは大変難しいと思った。結局、眠いまま、ごろ寝をしていた。妨害である事を知りつつも施すすべもなく、我慢して堪えても、全く、しっかりと法を学ぶ事ができないと思い、ただ時間を無駄にするだけで、それなら寝たほうがいいと思った。

 再びこうしてはいけない。私はしっかり内に向かって探さなければならないと思った。その時、「明慧週刊」(第283期)の一つの文章に「これは旧勢力が、彼女が幼い頃から大人になるまで目的を持って手配した事を認識していないからだ」と一言書いていた。私はパッと目が覚めた。なんとこのすべてが、邪悪が目的を持って系統的に魔難を私に手配したのだ、このすべては「自然」であるのだ。それだけでなく、私自身、幾つかの「症状」があり、それも幼いころから大人になった今までずっと続いて存在している。これも根強く残っていて、差し支えのない、たいしたことではないという認識だった。実は、自分がそれらの背後の要素を見破れないためにそうなっていた。それは旧勢力を黙認し、協力して従っていることだ。突破しようとするなら、旧勢力の手はずを見破り、不正な一念を取り除かなければならない。さらに、その不正な念はすべて人の念であり、旧宇宙の理でもあり、もちろん人の次元に制限されている。しかし、私たちの修煉は人の理の中から顕れる。だから私たちはこの不正な物を取り除かなければならない。新宇宙の理に同化し、人の理の中に居なければ、神の一面は顕れない。

 また少し消極的な考え方があり、それも由来が久しいことだ。たとえば、「いつも街へ出かけて、親族に出会わないとも限らない」といことから派生するのは、真相を伝えに行く時1回目は無事であり、また2回目も無事であっても、遅かれ早かれ酷い目に遇うはずだ。たくさんの同修は真相伝えを恐れ、多くの同修はこの変な理屈に困惑した。

 人の道理はこのようなもので、しかし私たちは何をやりに来たのか? 修煉ではないか? 修煉たるものは、人の理を越えなければならないのだ。私たちは衆生を救う一念を抱え、完全に人の理を超越すれば、神になるはずだ。衆生を救う事は神しかできない。私たちが人の理の中にいなければ、人の理は私をどうすることもできないのだ。さらに捕まえられることに言及することもない。

 総じて、あまりにも多い人の理は、私たちが神へ向かう事を阻害している。私たちが神の一面を顕したいのならば、しっかり法を学び、法に同化し、人の理を突破し、さらに越えなければならない。 

 個人の悟りであり、妥当でないところは同修のご指摘をお願いします。

 2007年7月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/6/25/157567.html