日本明慧
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修煉における少しの感想


 文/北アメリカ大法弟子

(日本明慧)師父 今日は! 学習者の皆さん今日は!

 この何年間か、明慧ネットで大法を実証する仕事を通しての修煉過程の中で、私はたくさんの心性の関、さまざまな魔難を経験し、躓きながらも、何とか歩んできました。そんな中で、とても心痛い体験もありますが、向上してから会得したこともさらにいっぱいあります。一番大きな会得は、自分のすべての向上は偉大な仏法によって熔かされて精錬された結果で、すべての知恵は慈悲なる師父が見守って下さり、与えてくださった結果だということです。大法の中で修煉しているささやかな私にとって、修煉の過程の中で大法の要求に合致する正しい選択をすることを学びました。ここで自分が会得した2つのことで交流させていただきたいと思いますが、不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 1、修煉と協調担当者

 ここ何年かの修煉過程を振り返ってみると、どんな時でも、どんなことでも、関を越えるというのは実は一回一回の選択過程であり、即ち、大法の修煉者に対する要求に従うか、自分の観念、人の心に従うか、師父が指導してくださった正しい方式に無条件に従うか、自分の好き嫌いに従ってやるか、のどちらかを選ぶことです。毎回の選択は、実際に修煉して向上するチャンスで、人心を捨てる過程です。

 最初は学習者の助言で、明慧ネットに文章を書きました。やっていくうちに、文章を書く学習者が多くなり、いつの間にか、私はグループの協調担当者になりました。しかし、長い間、協調を担当することにとても不慣れでした。というのは、自分は修煉の状態も、作文のレベルもあまりよくないし、能力から言っても、自分は協調担当者としてふさわしくないと思うからです。だから、ずっと心の中ではこの担当者になりたくなかったのです。随分長い間、手元にある仕事の完成に満足出来ず、また、全体の強調を考えようとする気が無かったのです。この問題を目にした学習者が、協調担当者として善意を持って十分に果たすべきだと指摘してくれましたが、なかなかその考え方を変えることが出来ず、いろいろな口実も作りました。しかし、今その件を振り返ってみると、私はあれこれの自己中心の基点で修煉の問題をみなしていて、法を実証する立場、法理が修煉者へ要求する立場から見ていなかったと分かるようになりました。学習者の皆さんはだいたい法を正す全体の情勢の要求から考えていて、法を正す全体の需要から積極的に協力しているのです。それに対して、私は協調担当者として、いったいどれほどの力を尽くしたのでしょうか? だから、このことを思い出すと、修煉上、とても大きな漏れがあったと恥ずかしく思えてなりません。

 絶え間なく法を学び、法理上から考え、ほかの協調担当者の修煉と仕事ぶりや作文グループ内のほかの学習者の修煉状態と見比べることで、自分の問題がよく分かりました。協調担当者という役への抵抗感というのは、実は自我、「私」から出てきた現象です。協調担当者としては、作文レベルがあろうが、仕事の能力があろうが、それは必須条件ではありません。それよりも、一番大事なのは、本当に奉仕する心を持てるかどうかということです。師父がこういう内容の説法をなさったと思いますが、つまり、協調担当者を選ぶ時に考える条件は能力の大きさでもなく、みんなのために奉仕する熱心さがあるかどうかということです(大体の意味)。

 協調担当者の仕事は始終、時間もかかるし頭も使うので、自分の時間ややりたいことに影響してしまうに決まっていると思うし、グループ全体の、作文能力や角度を考えることはなんと責任重大なことだろう、なんと疲れることだろう、もし協調担当者ではなくて、自分の好きなことだけをするならば、なんと気楽でいいだろうと思ったのです。こういうエゴの考え方があるからこそ、長い間、自分と作文グループ全体、協調担当者としての責務と修煉の関係をずっとうまく位置づけできなかったのです。自分の問題で、もたらした損失にも気が付きました。師父がずっと慈悲をもって私のことを見守っていて下さり、悟りを開かせるように注意をなさっています。ある日、明慧ネットで何気なく古い文章を調べたら、修煉物語「生半熟の鉄茄子」が目に入り、またその内容にびっくりしました。2人の強盗は仏様のお話に従い、49日後円満しましたが、一生、仏様を敬虔に信じる夫婦2人は、自分の鉄茄子を一番火加減のいいところで焼くため円満できませんでした。この夫婦が帰る道は「私」のため阻まれました。そして、私は悟りましたが、私の協調担当者に対する「私」の観念はその鉄茄子を焼く夫婦と何の違いがあるのでしょう。

 師父が、説法の中でこのようにおっしゃいました。「宇宙大法が1人の人間を変えるのはあまりに簡単なことです。この間例を挙げましたが、それはまだ非常に小さい例ですが、まさに溶かした鉄に木の屑が落ちたら、瞬時に無くなり、全く見えなくなります。これほど大きな法の中で、人間はまさにその木の屑のようです」。「法は人間に1つの機会をもたらしているのです」(『カナダ法会での説法』)。

 大法の中で修煉する人にとっては、私心を捨てなければ、法を正す修煉過程で自分の使命を完成出来なければ、万古不遇のチャンスを逃してしまうことになると思います。実は、明慧ネットという修煉環境で修煉、向上できることは、私にとってはこの上ない光栄だと思っています。勿論、それなりに担う責任も重大です。大法の情報を伝えるネットとして、背負っている責任、直面している生命は並のものではありません。これらを悟ると同時に、私の観念の汚さをつくづく感じ、修煉はどんなに厳粛なことかとも感じました。じつは、どんなことをしても、それは大法を実証し、衆生を救い済度する需要で、この需要と歴史的な使命が私たちを選択したのであって、私たちが大法をどのように修煉するかということではありません。この基点を間違えてはいけません。正しい基点の下で、私たちは初めて法を正す修煉の中で執着と人心を絶えず捨てることができ、大法の要求に基づいて、修煉者の標準に符号した選択ができると思います。

 今日、これを交流したからといって、すべてよくやったという意味ではありません。しかし、この人心を捨てる面で、一歩前に進めたと思います。私の修煉上の不足を感じられたら、皆さんから、率直なご指摘をいただきたいと思います。大法に同化する過程の中でお互いに学び合い、向上し合い、使命をよく完成させましょう。

 2、修煉と仕事

 家を出て、常人社会での仕事をすると決めた時、よく自分に言い聞かせていますが、常人社会の仕事環境はもうひとつの修煉場所に過ぎず、絶対常人の心を動かしてはいけません。

 そこで師父の教え、『精進要旨』(智とは何か)をもう一回学びました。「人類社会の中の有名人、学者、各種の専門家について、人々は非常に偉大だと思っているが、実はいずれも、とてもちっぽけなものに過ぎないのだ。なぜならば、彼らは常人だからである。彼らの知識も、ただ常人社会の現代科学が認識したわずかなものに過ぎないのである。ぼう大な宇宙にあって、最もマクロから最もミクロに至るまで、人類社会はちょうど最も中心、最も外側の層、最も表面にある。生命も最も低い次元での存在のしかたをとっているため、物質と精神に対する認識もとても浅く、浅はか、かつ哀れなものである。全人類の知識を身に付けたとしても、やはり一人の常人に過ぎないのである」。

 私は1997年に、身体のせいで仕事をやめて以来、ずっと常人社会の仕事環境に戻りませんでした。しかし今の仕事を始めてから、ほとんど毎日のように、さまざまな仕事の状態、要求及びさまざまな人達、常人の心と付き合わなければなりません。私は、いつも自分は大法の修煉者であり、言語や行動は必ず大法弟子として相応しいものでなければならない、大法に泥を塗ってはいけないと自分に言い聞かせています。すべてにおいて適切なチャンスを生かし、同僚に真相を話し、縁のある同僚には『法輪功』を伝えています。大法を修煉して出てきた慈悲の心で、さらに多くの人々に真相を伝え分かってもらう事が私の願いです。

 仕事を始めてしばらく経ってから、真相を伝える中で、もう捨てたと思っていた人心が、また出てきたとことに気づきました。時には、その人心は、まだとても強かったのです。何年間かの修煉を通じて、有名人を慕う心や、学者を崇敬する心、いわゆる名を求める心はもう捨てたと思っていました。昔憧れた有名人の事を見たり聞いたりしても心はもう動かなくなっていました。しかし、同じ事務室で勤めたアメリカの同僚に真相を伝える時、まだ残っている名を求める心が暴かれました。最初はそんなに目立たなかったのですが、彼の履歴や名誉が分かると、彼の善良な本性への好感(それも実質は人情です)と共に、有名人への崇敬の人心がまた出て来ました。この心も彼に真相を伝える時の支障になり、彼の前での失態、自分に対する好感を失うことを恐れて、彼にはただ表だけで、なかなか突っ込んで真相を伝えませんでした。しかし、自分のこの心に気付いた時、自分でもびっくりしてしまい、長年の修煉にもかかわらず、この心をまだ根絶できていないため、また出てきたのです。その心は、さらに真相を伝えることを阻みました。

 私は悟りましたが、如何に出てきた執着心を切り捨てて、各種の常人との人間関係を正しく位置付けるかが、私の直面している厳粛な修煉課題なのです。名を求める心はこの物質空間の産物で、後天的にできた観念に過ぎません。その心が重んじているのは、常人社会の名、利、情です。修煉者としては、常人社会のすべてを越えるべきで、常人の心には、かえってまつわりつく訳にはいきません。そのアメリカの同僚がいくらすばらしくても、常人社会の学者、専門家に過ぎず、彼も大法に済度されるべき生命であり、常人社会の成功は、彼の未来に命をもたらすことはできません。彼が何十年もの座禅の経験があっても、いくら善良であっても、大法を学ばなければ、最初の位置に戻れないのです。彼と出会った以上、私が彼に真相を伝え大法を伝える相手ではありませんか? 生命の角度から言うと、ほかの衆生と何の違いがありますか? 私に残っている常人の心で真相を理解し、さらに修煉のチャンスを壊してよいでしょうか? もし本当にそうだったら、私はどれほどの罪を犯すことになるのでしょうか?

 それが分かってからは、正念を発し、自分のよくない思想観念を取り除き、執着心だと感じたら、それを、摑んで消し常人との関係を正しく位置付け、いろいろなチャンスを利用しては、彼に真相を伝え、大法の書籍や功法のDVDを見せ、本を読んで法輪大法を十分に了解するようにと勧めました。また毎日昼頃には事務所で正念を発し、事務所の環境をきれいにし、大法の真相と修煉を阻む邪悪な要素を取り除きました。いま、そのアメリカの同僚はもう大法の修煉に入り、ほかの同僚も大体大法の真相が分かるようになりました。

 仕事中に、また別の執着心にも気が付きました。それは仕事をよく頑張るという強烈な執着です。もともと頑張って仕事をするという考え方は悪くはないのですが、それは他人にいい印象を与える為であり問題になります。また、堂々とした口実も作りました・・大法弟子の姿を汚してはいけないと。その結果、自分の仕事量がますます多くなり、決まった時間に終らせる事が出来ず、退勤するまでに終らせたいなら、品質を疎かにするしかありません。そうでなければ、うちで残業するしかありません。しかし、そうすると、大法を実証する仕事に影響を与えてしまうことになります。自分の執着で旧勢力に隙に乗じられて、とても完成できない量をすることになってしまいました。その関係が分かると、自分のことを規正すると同時に邪魔をしている邪悪な要素に対して、正念を発し解体することにしました。常人の次元で、堂々とボスに勤務時間帯に完成できる量の仕事はするが、余暇には法輪大法の真相を伝えることをしなければならないと説明しました。昔、真相を伝えたことがありましたから、私の要求と説明にとても理解をしてくれて、仕事のきつさもこれで緩和しました。

 仕事環境での修煉過程からこういう会得がありますが、つまり師父に教えていただいた、三つのことをみんな良くおこなうという事は、われわれが、法を正す修煉過程の中で、法をよく学び、自分をよく修煉して、初めて衆生を救い済度するという使命を完成できると思います。まだまだ修煉しなければならないところが多くあると思いますが、師父の慈悲なる済度に背かないよう、真、善、忍の修煉の道を最後まで歩んでいきたいと思います。

 師父、ありがとうございます。皆さん、ありがとうございます。

 2007年7月31日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/7/29/159619.html