日本明慧
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自我を捨て去り、磐石のごとく堅い一体を成す


 文/湖北省大法弟子

(明慧日本)師父は、『ロサンゼルス市での説法』の中で、このように弟子を戒められました。「くれぐれも気をつけてください。これから、人から言われたくない人は、つまり精進していない人です。人から指摘されたくない人は、その人が表しているのは修煉者の状態ではありません。少なくとも、この点に関してこのように言えます。(拍手)この関をこれから乗り越えられない人がいれば、皆さんに教えますが、それは大変危険なのです!」。

 集団学法の時、読み間違えたり、字が抜けたりして、誰かに注意されたら、不機嫌になる学習者がいます。結局、誰もがあえて言う勇気がなくなったり、気をつけながら話しかけたりしてしまいます。『転法輪』 の一つ一つの字の後ろに師父の法身の形象があり、気軽に読み間違えていいのでしょうか? ある新しい学習者が、最初に法を学んだ時、一字一字を指しながら読んでいました。なぜかと彼女に聞いたら、師父が、一つ一つの字の背後は、みな佛道神なのであり、偏旁部首でさえもそうなのであると仰いました。それを敢えて読み間違えるのかと彼女は答えました。新しい学習者でさえもその厳粛性をちゃんと認識できるのに、古い学習者が、間違いを指摘されるのを嫌がるなんて、これは正に心性上の格差ではありませんか。師父が集団学法と、煉功の環境を切り開いてくださったのは、ほかでもなく弟子達が互いに高め合い、促進させていくためであると思います。長年修煉してきたのに、これくらいの情も取り除くことができないなら、どうやって圓満成就できるのでしょうか。

 大法を実証することを、少し行なっただけで満足し偉そうに思う人がいます。皆さんが必要とする事に協力も参与もしないし、人為的に自分と同修との間に間隔を作っています。大法弟子は、一つの全体であり法を実証することは、互いの協力が必要です。自分の思い通りにしてはいけません。人に指摘されたくないと思う事は小さな問題ではありません。この執着心のある学習者は、くれぐれも考えてほしいのですが、なぜ間違ったのに指摘されたくないのですか。師父は、私達を上の方へ連れて行くために修煉させるのであり、常人の何かのために修煉させるわけではありません。全体の向上と昇華する中で、私達はみな自主的に自分を正しく修め、全体と圓容し、われわれの空間場を清めれば、邪悪が乗じようとする隙もなくなると思います。

 またもう一つの問題を思い出しました。師父が大法弟子に三つのことをよく行わせますが、その中の一つは、正念を発することです。正念を発する事は、もう6年余りが過ぎましたが、意外にも夜中12時の正念を発したことのない学習者がいます。その中の一部分の人達は、とても良い条件が整っていて、何の気がかりもなく、何の阻害もない人もいます。夫婦2人、さらに子供を含めて皆修煉者である人もいます。ただ夜中12時の発正念を重要視しないで、発することの言及にも及びません。

 勿論、私を含めてそうですが、修煉の中で必ず執着が現れるものです。しかし、私達はいつも師父の教戒で、絶えず自分を正しく帰らせなければなりません。心の中に全体を置き、自我意識を克服して、永遠に「修煉はほかでもなく、内に向けて探すことであり、自分が正しくても、正しくなくても自分の問題を探すべきであり、修めることは、ほかでもなく常人の心を取り除くことです」。(『ロサンゼルス市での説法』)を覚えておきましょう。そうすればこそ、私たちの道を正しく歩むことができ、地域全体は力強い一体を成すことができ、恥ずかしくなく法を正す中の一粒の粒子になります。

 以上、ささやかな感想ですが、不適当なところがありましたら、ご指摘をお願いします。

 2007年8月2日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/8/1/159957.html