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「迫害の発生」と「迫害を終わらせる」ことについて


 文/徐修真

(明慧日本)『明慧週刊』の中の「迫害を終わらせる」ことに関する文章を読んで、自分の体験に基づき、「迫害を終わらせる」ことと「なぜ迫害が起こってしまったのか」ということについての感想を述べさせていただきます。間違いがありましたら、慈悲なる叱正をお願いします。

 師父はこの迫害を根本から認めておられません。しかし、この点について、昔はよく理解できませんでした。2005年に不法に捕まった経験から、師父のご説法をよく理解しなればならない、そうでないと、迫害の中、旧勢力の按排の中で修めてしまうことになると思いました。帰ってきてから、『導航』及びその後のご説法を繰り返し通読し、だんだん師父がなぜ旧勢力の操ったこの迫害を認めないのか、なぜ認めないのに、この迫害はまた発生してしまったのかということについて理解できるようになりました。

 旧い宇宙の中の生命は宇宙に法があるということが分からないのです。師父が法を正すということを師父がこの法を実証し悟っておられ、ただ次元が非常に高いに過ぎないと思い込んだのです。だから、あえて自分の按排をやり抜こうと思っていました。しかし、旧勢力の按排どおり法を正すとしたら、法を正してからの宇宙は昔と何の変わりもないのです。まして、旧勢力の生命は旧い宇宙の壊、滅時期のもので、宇宙の成、住時期の生命にも及ばず、新しい宇宙の基準に合わないことは言うまでもありません。だから、そのすべての按排、魔難、迫害は根本的に認めてはいけないのです。勿論、師父が迫害を発生させまいと思われたら、それも発生することができません。師父はただ法を正す中で、それらの心性を見定め、それによって、改めてそれらの位置を按排し、それに、全宇宙の衆生を救い済度しようと思われ、また学習者の向上の要素もあるので、迫害が発生したわけです。

 昔、向上の要素があるからには、その中で自分をよく修めよう、よく修めれば、迫害もなくなるだろう(このように思っている学習者もいるだろう)と思って、迫害される中で修めに修めて、結局この迫害を根本的に否定しておらず、いくら修めても、本当の向上ができないのです。本当の向上は師父に教えていただいた大法に基づいて高め、師父の要求された三つのことを行なう中で高め、衆生を救い済度するため、だんだん自己を放下して(例えば恐怖心や安逸を求める心など)こそ、できるのです。師父に教えていただいた大法に基づいて本当に向上してきて、もう迫害から抜け出したと分かりました。しかし、衆生の大法に対する正しい認識はまだこの迫害によって阻まれています。こういう意味で、迫害を直ちに止める必要があります。それはあくまでも衆生を救い済度するためです。

 適当ではないでしょうが、ひとつ例を挙げてみますと、例えば、修煉の道を歩んでいる時、前方に石があるとします。この石は向上するための道具と師父に教えていただいたら、この石で躓いて転び、結局傷だらけになって、自分はまたこれで喜び、それを向上の道と思っている学習者がいます。しかし、本当に向上してきて、振り返ってみると、はっと分かったのですが、師父が要求される向上はまさに石があった場合には石に影響されないように、自己を放下し、続けて私たちの歩むべき道を歩んでいくことです。つまり、石を取り囲んで修煉するのでもないし、石自体は修煉の目的でもありません。こうしてみると、石の存在は全然意味がなく、後についてくる衆生が躓いて転ぶ邪魔にもなるので、むしろ取ったほうが一番いいでしょう。

 個人の悟りですが、迫害を止める目的は衆生を救い済度するためです。

 2007年8月17日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/8/13/160731.html