心を静めて法を学ぶことについてのちょっとした会得
文/中国大陸吉林市大法弟子
(明慧日本)修煉する時、本当に心性を高め、昇華できる鍵は法をよく学ぶことにあります。法を学ぶことについて、学習者と交流する時、どのように心を鎮めて法を学ぶかということが修煉者にとってとても大事なことだと殆どの学習者が言及しています。集団で法を学ぶか個人で法を学ぶかを問わず、『転法輪』を開くと眠くなり、ぼんやりしながら、どんな内容か覚えていない状態で、一講一講、或いは一回一回学んでいき、私たちの向上のために師父が巨大な忍耐で伸ばしてくださった貴重な時間を無駄にしてしまいました。
家事や仕事、或いは子供への情に邪魔されている学習者もいます。法を学ぶときに、上の空になったり、法を読むときに、字を間違えたりしています。学習者自身もいらいらして、自分のことを意気地がないと思っています。それに対し、座って眠いなら、立ちながら読んでみたら、或いは歩きながら読んでみたら、と助言する学習者もいれば、ひざまずいて読むと、すぐ眠気が取れて、とても効き目があると言う学習者もいます。
どうやって心を鎮めて法を学ぶかという問題について、以上のいくつかの方法は皆外に向けて求めたり、探したりしていて、しばらくは目の前の問題を解決できたとしても、根本的な問題は解決されていないと思います。それに、何かの方法で心を鎮めようとするのも師父が教えて下さった内に向けて探すという説法と背反しています。
法を学ぶと、眠くなったり、心が鎮められなかったりするのは、やはり法を学ぶことが修煉者にとっていかに重要で厳粛であるかを、まだ十分に認識していないからだと思います。これは学校での勉強とは違います。学校で出来が悪くても、普通に仕事をしたり、肉体労働をして生活を維持することができます。昔、修煉するときに、読経をしましたが、それは一字一字が全部目の前に浮かぶまで心を鎮めてはじめて、師父によって奥義が伝えられ、正果にまで修められるのです。
私たちが今学んでいるのは宇宙大法です。それがいかに奥深くて殊勝で偉大なのかはとても人間の知恵で想像できないし、人間の言葉ではっきり言い表せないのです。実際に修めて、心を鎮めて法を学んで、はじめて異なる次元での師父からの悟りが得られるのです。私たちもこれによって初めて大法の指導下で人の執着と人心を取り除くことができ、知恵を開き、修煉の意志を強めることができ、中国大陸での邪悪要素と圧力に満ちている環境で方向を迷わず、法を正す過程についていき、師父の要求された衆生を救い済度するという責務を果たすことができるのです。もし大法弟子が皆このように法を学ぶことの重要性と厳粛性を十分認識し、主意識がはっきりしながら法を学ぶことができれば、法を学ぶことを妨害するすべての邪悪な要素は必ず我々の強大な正念の下で解体されるに違いありません。
家事や仕事をしていれば、とても他のことに構う気力がないという学習者がいます。まだ常人の次元の法に符合しており、仕事に励むのも修煉で、大法を実証することだと言って、自分の執着に看板を立てています。それから、忙繁期になると、何カ月も法を学ばず煉功もしないで、この時期を過ぎてからまた補うという農村の学習者もいれば、孫の料理を作ることや、通学の見送りをするため、集団で法を学び、煉功することを辞める学習者もいます。明慧ネットを借りて一言助言したいのですが、もしも今になっても、時間を大事にして師父の要求された三つの事をよくやることの重要性が分からず、自分の私欲、情、利益のために頑張るのは、とても危ないことです。そうであれば、法を正すことが終わったとき、大法に同化されていない部分は旧いすべての要素と一緒に解体され、淘汰されるしかないのです。もし私たちが大法を得ていながらも精進できず、世に降りてくる前に結んだ誓約を叶えられなければ、法を正す事が終わったとき、師父にもう少し時間をくださいと言えるのでしょうか。
法を学ぶときの妨害については、必ず内に向けて探さなければなりません。それは外在の要素ではなく、人心が放下できないため、邪悪な要素に隙に乗じられるのです。もし私たちが本当に師を信じ、法を確信して、法を学ぶことを第一に位置づければ、きっと法を学べば学ぶほど元気が出るに違いありません。またそのときになって初めて、師父の説かれた「柳暗花明又一村」を感得することができるでしょう。
以上は私の浅い認識ですが、不当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。
2007年8月29日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/8/26/161469.html)
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