■日本明慧 http://jp.minghui.org/2007/09/14/mh144679.html 



修煉の基点を変え、新たに全体を認識する

 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)明慧ネットの2007年8月8月15日の文章・「邪悪の間隔を打ち破り、漏れのない全体を形成する」を読んで、とても感慨深く思いました。私も文章の作者と似た経験がありましたが、その難関を乗り越えてきました。だから、自分の経験に基づいて、どうように修煉の基点を変え、新たに「全体」と「邪悪の間隔」を認識したかについて述べたいと思います。

 迫害が発生してから、さまざまな原因のため私は殆どの同修と連絡が切れた。連絡出来る2、3人の同修も他の町に住んでいるので、徹底的に孤立状態に陥りました。法理上に困惑があったり、体が「業力」に見舞われたり、不法に捕まったり、法を正す過程で難関に立ち向かったりする時、とても同修と交流したかったのです。しかし、その2、3人の同修に救助の電話をかける度に、電話での交流を断られています。(今の状況から見ると、それも当たり前ですが)又、彼らのところを訪れることも断られ、自分で対処しなさいと言われました。

 救助を求めては断られることを繰り返していましたが、それにより、私は恨んだり、苦しんだりして、更に絶望までしてしまいました。一体、問題が何処にあるのかも分からず、そんな状態が何年も続いていました。

 しかし、何年かの後、法輪功への弾圧は間違っていると訴え、衆生を救い済度する練磨を通し、だんだんとその問題の根本を認識するようになりました。それは我々の修煉の基点が一体何処に立っているかということです。つまり私(し)の為の基点に基づいての修煉ならば、いつも、誰かからもらおうとするもので、他人の為の基点に基づいての修煉ならば、いつもあげようとするものです。それは旧宇宙と大法修煉の根本的な区別です。自分の経験を振り返ってみて、はっきり分かったのですが、いつも私はどんな時に同修に助けてほしかったのでしょうか? それは自分が難関を乗り越えられない時、落胆している時です。もし順調に法輪功への弾圧は間違っていると訴え、衆生を救い済度するときであったならば、全然同修に助けてほしいとも思わず、自ら進んで同修を手伝ってあげようとする考えもなかったのです。それは一方的にもらおうとすることばかり考えていたからではありませんか? そして、私のその思いが満足できないと、恨みという気持ちが自然に出てきたのです。

 ミラレバは衆生の罪を引き受けるために、あの博士の送ってきた毒薬を飲み、それにより、「病気の状態」が現れました。しかし、彼は「魔難」の中で他人に助けを求めず、神通で「病気の状態」を無くすこともしませんでした。彼は自分でその魔難を我慢すると同時に、「病気の状態」を利用して、彼に害を加えようとする博士を救おうとしたのです。また、我々の尊敬する、神聖で偉大な師父が私たちと衆生を救い済度するために、どれだけの苦痛を耐えてくださったかということも、私たちがいつまでも分からないことでしょう。しかし、私たちは少なくとも、師父にならって修煉の基点を私(し)のためから他人のための方にどんどん変えていくべきではないのでしょうか。

 私(し)のためにという基点に立つと、「内に向けて探す」ように努めていても、やはり苦痛に纏われて、なかなか抜け出せないのです。それに対し、他人のためにという基点に立つと、ただ他人の苦痛だけを考え、どのようにして他人が苦痛を抜け出せるように助けてあげられるかを考えるようになります。しかし、それと同時に、自分自身の苦痛、ひいては死への恐怖も知らずうちに克服し、自分が解脱できるのです。

 私(し)のためにという基点に立てば、魔難の中でややもすれば、他人や外部環境に頼ってしまい、自分の責任感を失い、独立性も失ってしまうことになります。それに対し、他人のためにという基点に立てば、他人に責任を負わなければという考えから、自然に自分の言行、自分の修煉にも責任を負うようになるのです。

 魔難の中で、他の人(同修も含めて)、外来要素に頼ろうとする考えの裏には、一方的にもらおうとする心が潜んでいるのです。このような私(し)のためにという基点に基づいて修煉するならば、邪悪な旧勢力に妨害と破壊の口実を与えることになり、私たちも旧宇宙の理から抜け出すことができず、旧勢力の仕出かしたきりのない魔難に陥ってしまうのです。もし修煉の基点を私(し)のためから他人のために変えれば、衆生を救い済度するという使命感と責任感を持ち、旧勢力の仕出かした妨害や魔難に惑わされることもなくなるのです、今、衆生は私たちに望んでいるのです。そのことの緊迫性を身にしみて感じる時、とても自分の苦痛を味わう余裕がないのではありませんか。

 だから、私たちは同修に望んだり、自分の背負うべき責任を同修に押し付けるのではなく、大胆に自分が責任を引き受けて、自分のすべての力を、衆生を救い済度することに捧げなければなりません。たとえ同修に手伝ってもらって進歩しても、それは他でもなく、世間で我々を救い済度するときの師父と大法の果てのない法力の真実な表現に過ぎず、別にその同修がとても能力があるから、彼に頼ればいいということではありません

 私たちは法を正す時期の大法弟子で、未来を切り開くという重大な責任を背負っているのです。私たちは一つの全体として、大法を実証する道を歩まなければならないし、又その全体の中の一つ一つの個体として自分なりの道も歩まなければなりません。私たちがどうように魔難に立ち向かい、どのように法輪功への弾圧は間違っていると訴え、衆生を救い済度するかという原則に基づいて、苦境を抜け出したか、それらのことは皆将来の参照になるのです。そのため、独立した自分の道を正しく歩むことはとても大事なのです。

 私たちは法輪功への弾圧は間違っていると訴えなければなりません。何か問題があった場合、先ず大法に「照らして考えるべきであって、問題の解決を他の人、外来要素、外在環境の変化に頼ってはいけません。個人の魔難という小さなことから、この迫害を終わらせるという大きなことに関しては、私たちが依頼できるのは他ならぬ、師父と大法、それに自分が大法から修めた正念しかありません。これもここ何年一歩一歩と修煉の基点を変えることにより、私は恨みの状態から抜け出した切実な感想です。

 孤独も苦痛も人の感覚であり、もし自分のすべての力を法輪功への弾圧は間違っていると訴え、衆生を救い済度することに集中すれば、他の同修と付き合うことがなくても、そのような感じはないと思います。しかし、魔難に陥った時、自分のそういう感じを邪悪の間隔と判断し、自分の修めなければならない部分を疎かにしがちです。

 だから、とりあえず、目の前の魔難を忘れて、視野を広げ、なるべく自分の考えをいかにさらに多く、効率よく、広範に衆生を救い済度するということに集中すれば、必ず一歩一歩「無私無我」の状態に達するに違いありません。そして、「無私無我」こそ、魔難を乗り越えるもっとも大事なキーポイントなのです。

 邪悪の間隔についていうと、邪悪には大法弟子を隔てる能力がないと私は思っています。たいていは、私たちは自分の人心によって隔てられるのです。もし同修に対し自分の心に間隔がなければ、同修に排斥されるという感じもしないし、他人に影響されず、自分のやるべきことをよくやれるに違いありません。

 自分の経験から言うと、修煉の基点を私(し)のためにということから他人のためにということに変えれば、恨みという気持ちも自然に雲散霧消してしまうのです。だから、当時、その同修たちの態度を今振り返ってみると、十分理解できるし、感謝もします。彼らのおかげで、自分の私(し)の心を取り除くことができ、自分の責任を負うチャンスを与えてくれたのです。今、彼らとはめったに連絡を取りませんが、心が相通じていると分かっています。私たちは大法により、緊密につながっています。それはとても邪悪に隔てられないのです。

 全体に関して、私はこのように理解していますが、全体というのは、単なる表面上で同修同士が付き合っているかどうか、集まっているかどうかという意味合いではありません。「集まれば形になる」かどうかについては、法輪功への弾圧は間違っていると訴え、衆生を救い済度するのに必要かどうか、環境が許すかどうかです。そうでなければ、いくら多くの人が集まっていても、大法弟子が全体を形成したとは言えないと思います。とくに、中国大陸でのまだ厳しい環境では、旧勢力に隙に付け入れられる可能性もあります。だから、必ずしも大法弟子は形式上一緒に集まった時だけが全体を形成したというわけではありません。

 長年来、私はずっと一人で法輪功への弾圧は間違っていると訴えてきました。しかし、全体と離脱したり、間隔があったりする感じは全然しません。明慧ネットの文章はほとんど読んでいるし、受益もとても大きいと思います。明慧ネットを通して、自分は全体の一部分で、全体から排斥される感じもしないのです。

 私たち一人一人は皆自分を大法の一粒子と見なし、大法の基点に基づいて三つのことをよく行えば、形式上ほとんどの時間は「散ってしまえば粒になる」状態になっているとしても、実質は確固たる全体を形成しているのです。私たちは大法によってつながっています。そして、大法こそ我々大法弟子を一つの全体として、正真正銘の全体としてまとめる威力を持っているのです。

 2007年9月14日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/11/162461.html

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