日本明慧
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「情に動かざる」


 文/清心

(明慧日本)

 不求名悠々自得

 不重利仁義之士

 不動情清心寡欲

 善修身積徳一世

 「名を求めざれば悠悠自得 利を重んぜざるは仁義之士 情に動かざるは心清らかに欲寡(すくな)し 身を善く修すれば徳を積むこと一世」(『洪吟』・做人)

 ある日、息子が学校から戻って、私が『洪吟』を暗誦しているのをみて、一緒に「做人」を暗誦しました。ところが、それを暗誦し終わると、直ぐ私に「いや、それは違う、情けを動かさないことができるの? 情けを放下したら、また親切にすることができるの?」と聞きました。その質問にびっくりした私は「それは違わない。情けを放下したら、修めることによって慈悲が生じるの。そして誰にも親切にするのなら、もっと優しくしてあげるのではないの」と答えました。すると、「情けがなくてまだ人間なの? 世の中で親の情けほど素晴らしいものはないよ。誰にも親切にしてあげるなんて、ママにはできるの?」と聞き返したのです。それを聞いて私は黙り込んでしまい、暫く経ってから「それはできる、絶対できる、それは修煉者の標準だから」と答えました。「もう止そう、言いたくないから」と彼は言い捨てて、テレビを見に行きました。

 その晩、私は夢を見ました。夢の中で私は4人の姉たちと、母と一緒にいました。私は母のためにセーターを編み上げました。しかし、ちょっと小さかったのです。「何でこんなに小さいの?」と4番目の姉に聞かれて「これでも精一杯なの。毛糸だけで7、80元もかかるし、やっとのことで編み上げたのよ」と言ったのです。夢から目が覚めると、もう眠られず、午後の息子との会話、そして夢の中の状況を思い出すと、はっとそれは師父からの悟りだと分かりました。

 母と姉たちは皆私の勧めで大法を修煉するようになり、受益はとても多かったのです。特に、母は昔たくさんの病気がありましたが、修煉してから、すっかり健康になり、業を消す現象もとても少なかったのです。また業を消す度に、法輪が彼女の周りをくるくる回りながら体を調整しているのが見えるのです。そして、私はこの例を挙げて人々に大法の素晴らしさを伝えるときに、いつも「両親が病気がないと、子供である私たちはたくさんお金を使う必要がなく、なんと楽なんでしょう」と言っていました。しかし、今振り返ってみると、親類たちの修煉を通しての受益に対して、やはり私(し)の心と親の情けへの執着があると分かりました。法を得てから、今までもう6年も経ちましたが、毎日のように執着を放下しようと言っていますが、果たして私は放下したのでしょうか? もし彼女らが私の親類でなければ、こんな気持ちで対処するのでしょうか? よく修煉しようと励ますときに、彼女らがよくなると、私も楽になり、そんなに彼女らのことに気を遣わずに済むという発想からそう言ったのではありませんか? それに、姑は修煉する前には怒りっぽい性格だったし、体も弱かったのですが、ここ何年、私はずっと「法を師にして、執着を放下しよう、我慢が必要だ」と注意してあげていましたが、それは本当に完全に彼女のためだったでしょうか? 彼女がもし修煉によって、体も性格もよくなったら、私がずっと楽になるからと思ったからではないでしょうか?

 姑が私のことを親孝行で、気立てがいいと褒めるのを聞くたびに「彼女が修煉してよかったわ」といつも私は言っていましたが、その時、思わずほんのり誇りを感じていました。それは完全に大法を圓容し、他人のためではなく、自分や私(し)の心のためであり、よくやろうとするのは大法を実証するのではなく、自分を実証しているのです。今までその名誉、利益、情けのためにという心を取り除こうとするどころか、また大法を利用してその深く潜んでいる心を隠そうとしていたのです。師父! 私は間違っていました。

 夜が明けました。私は続けて『洪吟』・「圓満功成」を暗誦しました。「修去名利情 円満上蒼穹 慈悲看世界 方従迷中醒」、「修して名利情を去り 圓満(成就)して蒼穹に上る 慈悲をもって世界を看れば 方に従れより迷いの中から醒める」。

 2007年9月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/23/163162.html