日本明慧
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他の空間で見た「点数」について


 文/アメリカ大法弟子

(明慧日本)『転法輪』第二講を学び終わって、翌日の朝、正念を発してから、他の空間の有様を見ました。

 他の空間では、修煉の良し悪しに対しては判断する基準があるのです。私の今の修煉状態に合わせて見せてくれたのは点数の形でした。

 法の学習にもし暗誦の方法を取っているならば、60点からスタートするのです。通読だったら、注意力を集中してでないと、合格にはなりません。心を使わずに読むだけだったら、不合格です。私の法の学習は60数点でした。

 正念を発することについては、もし4回の決まった時間に全部発するとしたら、60点からスタートしますが、多く発する場合は、1回ごとに5点を追加するのです。もし4回の決まった時間に発さなかったら、1回ごとに15点引きます。他の時間に発するならば、それを合計して計算します。私の正念を発することは60点になりませんでした。

 3つ目は人を救い、真相を伝えることですが、私は50数点で不合格でした。法を実証する仕事はたくさん行ったと思ったのです、毎日何枚かのチラシを配ったら合格になるのではないかという考えが頭を掠めました。そうしたら、「それは圓満を求めるためにやったので、計算に入れません」という立体音声が頭に打ち込まれたのです。

 それから、私は神と向かい合って座りました。神の形は見えませんが、それは一種のエネルギーと意識の存在でした。私の心が取り出されて、真ん中に置かれ、修煉し始めたときから今までの出来事が映画のように一つ一つその心の中に現れました。それと同時に、一つの無声の意識がことごとく反映され、心理状態を見て、自分が基準に合うかどうか考えてみなさいという話を伝えてくれました。その時は弁解の仕様もないし、隠しようもないのです。というのは、一種の強大な場で、もし本当のことを言わなければ口を開けなくなるようにしたからです。

 師父の要求されたこと、自分が法に基づいて悟ったこと、法の指導に基づいて行ったこと、完全に人を救い、法を実証するためで、出発点にはいかなる個人の目的がないこと、これらはみな基準に達しています。それに対して、自分がやりたいこと、自分の目的を持ってやったこと、功徳や圓満を求めるためにやったこと、自分を実証することなど、これらはみな計算に入れないし、基準にも達していません。

 その時、修煉して以来自分のやった一つ一つのことが目の前に現れました。それはとても素早く、ありありと目の前に浮かび、自分がちゃんと感じ取れるのです。自分のやったことは基準に合うかどうかと無声の意識が自己評価するときに、とても厳粛で情けない感じがして、本当に修煉ということは誰も騙すことが出来ないとつくづく感じました。

 人を救い、真相を伝え、法を実証することに対しての採点基準は別にやったことの多少ではなく、それは人として生活と仕事を維持する以外に、人を救い、大法を実証することに使った余暇時間、力とお金のパーセンテージです。つまりそのパーセンテージが採点のパーセンテージなのです。

 これらの光景を見て、修煉の緊迫性と自分の解決しなければならない問題が分かりました。長い間、私は朝の正念をよく発していないし、私(し)のためにという基点をまだ完全に変えていないし、圓満を求めるという強い執着心を取り除いていないのです。時間からみてもう待てないわけを、このように直接に悟らせてくださいました。ただこれにより、自ら悟るチャンスを逸しました。

 個人の境界と次元に限られた所見ですが、ご参考になればと思っております。

 2007年9月28日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/9/25/163257.html