日本明慧
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他人を責める心を放下し、本当に内に向けて探す


 文/中国遼寧省大法弟子

(明慧日本)私は96年に大法を得ました。年数からいうと古い弟子と言えますが、今やっと内に向けて探すことができるようになった気がします。そして、本当に内に向けて探してみると、まだこんなにたくさんの人心があると気づき、とても古い大法弟子の称号に相応しくないと思い、恩師の長年の慈悲なる済度に済まない気がしました。

 これらの人心の中で、特に目立ったのは他人を責める心です。いつも他人の短所ばかりを見つめていて、あたかも他人の修煉を手伝っているようです。

 とりわけ家にいる時、夫や子供がちょっとした間違いをしただけでも、いつも酷く叱るのです。

 ある時、夫が屑籠を違う場所に置いたのを見ると、「まあ! 何で屑籠をやたらと違う所に置くの?」と直ぐ大声で言いました。そうすると、夫も怒ってしまって、「あんたはそれで真・善・忍と言えるのか?!」と大声で言い返しました。これを聞いて、私はあっけにとられて、一時ものが言えませんでした。心の中で、「そうね、私は真・善・忍を修めているのに、これで真・善・忍を表しているのだろうか? こんな口調で修煉者らしい行為といえるのだろうか? 他の人に認めてもらおうとするならば、先ず自分が良く行わなければならない。家にいる時も家庭の環境をよく圓容し、大法弟子らしい風貌も備えなければならないのではないか?」と思いました。それ以降、私は家にいる時も、家族の人を責めるような硬い口調で話さないように気を付けるようになりました。そうすると、「年取ってからかえって優しくしてくれるようになったな」と夫が言いました。実は私はただ口調が優しくなっただけなのです。勿論大法の要求に比べて、まだまだ距離があると思います。

 職場にいる時、昔はいつも最高責任者の不足をじっと見つめていました。彼の処理方法は不公平だという噂を周りの人から聞くと、彼に、あなたは職場の最高責任者ですから、不公平に扱うと、皆は納得してくれると思いますか? と咎めるのです。その結果、青筋を立てて大喧嘩をしてしまい、後で自分も悔しく思い、涙を流したこともあります。それでは、なぜトラブルをいつも激化させてしまったのでしょうか? 主にはやはり内に向けて探すのではなく、他人の短所ばかりを見つめ、自分が修煉者であることを忘れてしまっていたからです。党文化に毒された固い口調で他人を咎めるとしたら、受け入れられるのでしょうか? これらのことを意識してから、職場の最高責任者に「以前、私はしっかり行っていなかったせいで、私の口調と態度はよくなかったのです。これからは必ず注意しますから」と言いました。そうすると、彼も「すべてあなたが悪いわけでもない」と返事したのです。それ以降、職場でも他人を責めることをしませんでした。

 しかし、表では他人を責める心を放下したかのように見えますが、実はまだ深いところに潜んでいたのです。この前、甲という同修の問題を皆が目にしたので、彼女への注意を私に言わせました。そこで、彼女に問題点を指摘すると、彼女は内に向けて探すことをせず、受け入れませんでした。それはなぜでしょうか? 自分の口調がよくないからでしょうか? 善なる心が足らないからでしょうか? 彼女の立場に立って物事を考えていないからでしょうか? などと探すべきですが、そのようにはせず、自分も機嫌が悪くなり、他の同修に聞かれたときには、甲の不足を責めていました。ある日、甲の体の調子が悪くなったと聞いて、私は急に悟りましたが、皆は誰もが甲によくない考えを持っているとすれば、彼女によくない物質を増加させることになるのではないでしょうか? 同修の間ではお互いに圓容し合うべきなのに、私のそういうやり方のせいで、無意識的に大法弟子の空間場の間隔をあける作用を果たしてしまったのです。それはなんと大きな漏れでしょう。私のその強烈な執着はそれによって再び暴露されました。

 修煉の道をよく歩むためには必ず法をよく学び、いつでも何処でも法を師にしなければなりません。師父は「私は大法弟子の環境を互いに批判しあう環境にしたくはありません。私はこの環境を、批評を受け入れると同時に、内に向けて探すことのできる環境にしたいのです。皆、自らを修め、すべての人が内に向けて探し、誰もがしっかりと自らを修めることができれば、衝突は少なくなるのではありませんか? この道理は、私は法を伝え始めた当初から、今日まで説き続けています。そうではありませんか? 修煉者は決して、叱責されることによって良くなるものではなく、師父である私の批評によって良くなったり、皆さんが互いに批評叱責しあうことによって良くなったりするものでもありません。皆さんが自分で自身を修めることによって、良くなるのです」とおっしゃいました。私はこれから必ず法をよく学び、他人を責める心を根こそぎ取り除き、本当に向上し、全体を圓容するようにしたいと思います。大法弟子がよく行った行動そのものは大法を実証することであり、そうでなければ、よりよく大法を実証するどころか、大法に泥を塗ることになってしまうのです。だから、私と同じ執着を持っている同修にこれを以って戒めとし、本当に内に向けて探すように気をつけてもらいたいのです。皆で最後の修煉の道をしっかりと歩み、共に衆生を救い済度するという前史の大願を成し遂げましょう。

 不当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年10月30日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/10/26/165279.html