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他人に怒らず 真に自分の心を修める


 文/大陸大法弟子

(明慧日本)他人に怒るのか? それとも、自分の心を修めるのか? これは常人と修煉者との境界線である。法を正す時期の後期に至っている現在、大法弟子は神の奇跡を起こせるはずである。しかし同時に自分はすごい、なんでもできると思ってしまい、自分を修めることを忘れてはならない。人と人の間でトラブルが起きた時、特に家庭の中、或いは同修の間で、トラブルが起きた時、本当に他人に怒らず、真に自分の心を修めるべきである。これは煉功者の次元の高さを量るとても重要な基準である。

 一、他人を理解し、信じ、寛容である。事前と事後、常に慈悲の心を保つべきである。

 二、他人の足りないところが見えたら、自分に原因を探すべきで、いかなることでもすべて自分の心理状態により引き起こされたものである。第三者でも人と人との間でトラブルが起きたのを見れば、自分を探すべきなのに、当事者の場合はなおさらのことである。

 三、周りの人はみな自分の修煉環境となる。もしいつも和気あいあいであり、みなお世辞を言い合っていれば、何を修煉できるのか? トラブルに遭遇してこそ、やっと修煉者の姿が見抜ける。もし、みなあなたから遠く離れていき、誰もあなたと交流しなくなったら、心性を高める機会がなくなる。

 四、喜ぶか否かは情であり、怒るのも情であり、いずれも取り除くべきものであり、とっくにこの情は切り捨てるべきだった。

 五、トラブルの中で、相手のどうこうを目にした時、却って自分を見るべきで、そうすると自分の問題を探し出すことができる。

 六、もし相手が無礼なことを言ってきたら、それはみなあなたが以前造った借りであり、すべてあなた自身の難であり、現在あなたを助けて業を滅しているので、更に怒ってはならない。

 七、相手が本当に間違ったとしても、怒る必要はない。もし相手が常人であれば、彼には彼の運命がある。たとえ同修であっても、それぞれ自分の修煉の道があるので、べつに何かを強要する必要もない。悪で悪に対処することは、またもや徳を押し返したのではないか?

 2007年10月30日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/10/16/164505.html