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長春郵電学院大学の学生・宋昌光さんは2003年迫害によって殺された

(明慧日本)長春郵電学院大学生の宋昌光さんは大学4年目の2000年、ちょうど卒業の時、天安門広場で連行され、強制的に長春市朝陽溝労教所に入れられた。2002年7月22日の午後、労教所が様々な迫害を加え、宋昌光さんはもう長く生きることができないと判断し慌てて釈放した。家族は酷い状態に堕ちていた宋さんを九台医院に入院させ治療した。しかし、もう時すでに遅く、宋昌光さんは2003年11月12日冤罪でこの世を去った。たった26歳の若さだった。

 宋昌光さん(男性)は、吉林省徳恵市辺崗郷双城子村八社の人である。97年長春郵電学院大学(後に吉林大学と合併)の通信工程学部に入学した。高校時代から法輪功を修煉し始めた。彼は、成績もいいし、法輪功の教えに沿ってよい人になるように頑張ってきた。彼の専門分野は人気があるので卒業したら、月給は4千元から5千元のいい仕事に就くのは問題ないと思われた。しかし、彼が仕事を探すとき、法輪功を修煉しているからと言って、どの会社も採用しなかった。

 2000年、法輪功の迫害を止めてくださいというメッセージを伝えるため北京に行って、天安門広場で横断幕を開いたとたん連行された。留置所に拘禁されている時に、ならず者そっくりの警察が歯ブラシの取手を宋さんの指の間に挿し入れ、同時に彼の指を隙間無しに並べて全力で歯ブラシの取手を回した。このように歯ブラシの取手を利用して彼の指の筋肉を破壊した。このような卑劣な手口で宋さんの口から住所を知ろうとした。その後、宋さんを長春市朝陽溝労教所に入れて不法に監禁した。

 2001年5月、宋さんは長春市朝陽溝労教所に迫害されて疥癬にかかって、全身に感染し、損壊した皮膚は60%に及んだ。最初は、全身に膿瘡が出て化膿していた。悪質な警察は化膿した膿瘡のところを手で強く打ったせいで、膿瘡がもっと拡大して酷く広がり皮膚の下まで感染した。特に臀部のところに感染して表皮が全部腐って皮膚が深部までなくなっていた。警察は大きく腫れた膿瘡を破壊して、缶詰のガラス瓶を使って、膿瘡の中身(血)を出して遊んで楽しんでいた。長い間感染したため、皮膚組織は変形し、汗腺が全部萎縮して、上半身皮膚が紙のように乾いた。その上に、痒く、炎症で腫れてすごく痛くなった。中毒症状のせいで、長時間の高熱で意識を失った。宋さんがこんなに苦しんでいるのに、邪悪な警察は彼が寝ていることにした。

 長い間栄養が不足したため、重い貧血になり、免疫が低下し、炎症がリンパにまで及び、あごのリンパが化膿して玉子の大きさほどになり、化膿した緑色の液体が流れ出た。すると、警察はガーゼで膿口を塞いただけの処理をして済ませた。宋さんの体がこんな状態になっても、警察の彼に対する刑罰は続いた。板に体を縛って長時間座らせたせいで、服が皮膚についてしまって、宋さんの痛みがもっとひどくなった。両手が化膿して、手のひらに多数の孔が出て、親指のつめが落ちて、水に手が入れられない状態なのに、警察は彼に汚い雑巾で床を拭くように強要した。秋にはトウモロコシの収穫をさせた。毎朝、寝室のシーツの片付けも彼にさせて、寝る時は狭くて、体を斜めにして寝るしかなかった。

 このように、1年以上暴行された結果、もともと180センチだった宋昌光さんの体は骨だけになって、関節が突出し、下半身の皮膚がただれて、血が流れ、貧血になり、顔色と唇は蒼白になり、血が流れなくなった。

 2002年4月4日、衰弱しはてた宋昌光さんは再び長春市朝陽溝労教所の暴行を受けた。大隊長の付国華、副大隊長の範盛禄、教官の王と趙らが30万ボルトと35万ボルトのスタンガンを宋昌光さんの顔面と首に当てて焼き、警棒で足を殴った。その結果、宋昌光さんが心身ともに衰弱し、傷跡も増え、両足が腐り、全身に6〜7センチ、長さ0・5センチの割れ目が20カ所あった。体を押すと堅くて、水がたまって腫れてしまっていた。最後に、心臓の機能も衰えて、両足の水腫と肺水腫で息絶え絶えであった。

 2002年7月22日の午後、大隊長の付国華は宋昌光さんが危篤であることに気づいて、大隊で死んだ場合の責任を取るのを恐れて、慌てて司法局の張所長と相談して、何の手続きもなく、印鑑を押すだけにして宋昌光さんを解放した。宋昌光さんの家族が宋昌光さんを九台病院に送って治療したが、もう手遅れで2003年11月12日に、冤罪でこの世を去った。九台市で火葬した。

 2007年11月3日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/1/165703.html