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師と法を信じ、魔難を抜け出す(二)

(明慧日本)もう一つの原因は私(し)のためにという観念を持っていたため、自分のことを特別に見なし、無意識に自分が偉い、これで法を実証する資本を貯めたと思って、テレビを利用して、国民に真相を伝えてから、自分は一息付き、昔ほど忙しくしなくてもいい、7.20が発生してからずっと法を正す過程についてきて、たくさんの魔難を経験したし、たくさんのことを行ったから、今多く法を学び、部屋でちょっと何かをすればいいと思ったのです。この考えはぼんやりしていて、とても微妙で、気付きにくかったです。しかし、このような考えを持つと、既に気が緩んでしまい、邪悪に隙に付け入られて、それらのよくない要素を強めました。そうしたら、自分がどっしりとした正念をもてるでしょうか?

 もちろん、普通正念が強い時、それに影響されることなく、物事をよく行えるのです。大体、事をやり終えた後、主意識を緩めたため、自己というものが出てきたのです。もしその時にどの考えが本当の自分であるとはっきり見分ける事ができなければ、その考えに従って心が動かされ、自惚れていて、「修は己にありて、功は師父にあり」ということを忘れてしまいがちです。実はこれらの事が成功を収めたのは、心が法に則ったからであり、それは法の威力の表れで、皆師父がなさっておられるのです。「自己」と何の関係があるのでしょうか。逆に、大体「自己」という考えを交えたからこそ、問題を起こしてしまい、よく行わなくなったのです。時には、私は自分を実証するために、同修に自分が如何に邪悪の迫害から抜け出したのかと説明する時に、意識的にもまた無意識的にも邪悪の迫害を大げさに表現し、それによって自分の偉さを表そうとしたのです。このように自分を実証しようとしたため、別の形で邪悪の迫害を認めることになったことを自分と一部の同修が当時気がつかなかったのです。その表現として、如何に迫害されたのか、邪悪が如何に悪辣な手段をとったのか、自分が如何に邪悪を恐れないのかだけを強調し、なぜこの迫害が起こったのかを内に向けて探さなかったことです。実は迫害されたのは私たちの恥であり、師父が認められないことです。

 これらのことを悟ってから、私はある程度突破しました。しかし、尾行や監視、迫害されるという考えがよく頭に閃き、完全に乗り越えるのはやはりとても難しいと思いました。ある日の夜中の1時ごろ、激しくノックする音で私は目が覚めました。窓越しに外を見ると、白い車が道端に止まり、タバコを銜えた何人かが私の住んでいるマンションのドアをトントンと叩いているのです。その音があまりにも大きいので、隣人は皆目が覚めました。その瞬間、私は胸が高鳴り、私を捕まえに来たのだと思いました。しかし、直ちにその思惟を否定し、そして正念を発しました。その騒がしさのため、完全に心を静められませんでしたが、私はなるべく自分を落ち着けて、正念を発し、そのすべてを否定し、邪悪を取り除くようにしました。

 暫く経って、私が一階に降りてみたら、誰も居なくなり、何の音もなくなり、まるで何事もなかったようでした。部屋に戻ってから、私はここ一年来のことを振り返ってみて、なぜ、なかなかこの状態から抜け出せないのかと落ち着いて考えました。迫害される考えを押し付けて、いつまでも忘れさせようとしない。それは正しく邪悪の企みではありませんか? この心を取り除かないと、邪悪はいくらでも妨害する方法があるのです。これは師父の按排ではありません。私はもうこのようにしてはいけません。私は大法徒であり、法を正す時期の大法弟子です。私は将来何を歴史に残すつもりでしょうか? これらの恥なのでしょうか? いくら難しくても、私は自分の道を歩まなければなりません。もうこのように自分を閉じ込めて、部屋の中で法を実証することをしただけでいいと思ってはいけません。今は法を正す修煉なのです。如何なる心も天上に持ち帰りません。私は重大な歴史的な責任を持っているのです。表に出て、堂々と大法弟子として行うべき事を行わなければなりません。

 しかし、私の問題の根元はどこにあるのでしょうか。私は師父が『精進要旨』(「道法」)の中で説かれた内容を思い出しました。「長きにわたって大法の中にいる衆生、特に弟子たちは心性を向上させる上で、法に対してずっと異なる次元での誤解がある。苦難がやって来るたび、本性の面から認識できず、完全に人間の面から理解しているため、魔はこれを利用し、尽きることなく邪魔と破壊をしているので、学習者は長期にわたり苦難の中に陥っているのだ」。

 このすべては自分の心によって促成されたと私は分かっています。それは乗り越えられない魔難のように見えますが、実は自分の心が如何に動じるか次第です。もし神の念で対処し、それはたいした事がないように見れば、それは小さいのですが、人心で見れば、大きく感じるのです。しかし、神の念は大法に基づいて、師と法への正しい信念に基づいて初めて出てくるのです。師父は「主意識を強くもつべし」「心を正しくもつべし」と教えてくださいました。人心があることは別に怖いことではありません。大事なのは、それに動かされることなく、自分が自分を主宰し、常に正念を保つようにすることです。

 師父は「修煉者が重んじているのは、正念です。正念が強ければ、何でも食い止めることができ、何でも行なうことができるのです。あなたは修煉者で、神の道を歩んでおり、常人の要素、低次元の法理に制御されていない人だからです」 (『ロサンゼルス市での説法』) とおっしゃいました。

 私は繰り返し法を学んだり暗誦したりしました。私は本当に信じたのでしょうか? 本当に法の要求通りに行ったのでしょうか? 自分はまだ完全に師と法を信じていないと意識しました。もし私に法の学習が足りないと言うなら、実はそうではなく、『転法輪』を既に7,8回も暗誦していて、法の学習には随分力を入れているのです。大事なのは信じることであり、確実に修めることです。修煉は他ならぬ自分の心を修めることなのです。私が魔難に陥ったのはこれらの人心を持っていたからではないでしょうか? だから、それを取り除くように、自分は確実に修めなければなりません。

 師父は『転法輪』(第三講:私は学習者をすべて弟子とする)の中でこのようにおっしゃいました。「本当に修煉しようと思えば、われわれのいう心性基準に基づいて自らを律し、本当に心性を高めなければならず、それこそが本当の修煉です」。

 もう自分の心性を高めるべきです。もしずっと一つの次元に留まり、昔悟って実証した法理で新しく出会った魔難を乗り越えようとすれば、当然難しくて苦労のように感じるのです。だから、それから法を学ぶ時、私はもう形を重んじないことにしました。法を暗誦する時に、進み具合に拘ることなく、心を静めて、本当に自分が学ぶようにして、自分のあらゆる生命体を皆無条件に大法に同化し、大法を心に刻み込んで、自分を大法の一粒子と見なし、大法に溶け込むように学びます。たまに形式的なものになったり、気が散ったりする事がありますが、気が付いたら、すぐ修正するようにしました。師父の説法を全部自分に照らし、自分の問題がどこにあるのかと見つけるようにしました。このように続けると、私の問題が次から次へと解けて、一層また一層の法理が目の前に現れるようになりました。時にはまだ十分に体験していないうちに、分かった部分はもう隔てられ、瞬く間に新しい境界が目の前に現れたのです。一日に何回もこのような変化が現れることもあります。このように、落ち着いて法を学び、無条件に法に同化し、そして表れてきた心に対して確実に修めていけば、一層また一層の法理が分かるようになり、またそれにより、自分の主意識がもっとはっきりするようになりました。

 法を学ぶ他に、内に向けて探すことはとても大事なのです。頭に浮かんできた一つの閃きや一つの考えに対して、私は自己を守ろうとせず、それらの観念に左右されることなく、それを掴んで放さず、真正面から立ち向かって、執着を深くまで掘り出して、根こそぎ取り除き、自分をはっきりと修め、本当に自分が自分を主宰するようにします。そして、邪悪の試練と按排を見透かすことができるようになり、試練にあった場合には、法に則って心を正しく据え付け、師父の要求は何か、師父がどのように行ってほしいのかを考えるようにします。正念を保てば、正の要素が加持してくれ、師父が守ってくださるので、如何なる要素も妨害できません。たまによく行わなくても、内に向けて探し、自分の心を修め、正念を固めれば、次回によく行えるようになるのです。

 ある時、一緒に住んでいる同修の携帯電話の番号が警察に知られました。一カ月監視されてから初めてそれが分かったのです。我々の住居がこれで知られたのではないかと心配したので、引っ越す必要があるだろうと、その同修は私に相談しました。それを認めてはいけないと口先で言っているものの、やはり心が落ち着かないため、とりあえず、この部屋を空けて、別のところに泊まろうと決めました。安全面のことを考えて、昔からずっとこのようにやってきたのです。しかし、同修と二日間探しましたが、新しい部屋を探し当てられませんでした。私は内に向けて探してみましたが、このことが分かってから、そんなことなんか私と関係がないと思って、ほぼ心が動じませんでした。ところが、やはり昔悟った法理に基づいて、引っ越そうとしていました、このようにしないと、とても心細かったのです。実はそれは法理上はっきりしていないところがあり、もう突破しなければならないのです。修煉は経験により対処するというわけではなく、ずっとある次元の法理に留まるというわけでもありません。前に向かって前進する時、経験と異なる次元の法理は往々にして妨害になるのです。私はこの「心細さ」を探しました。なぜ心細かったのでしょうか。それはつまり見つかることを心配するからです。見つかったらどうでしょう。それも迫害を認めることになるのではありませんか。常人の理で分析すると、私たちの住居は見つかったかどうかまだ分かりません。もし見つかったとすれば、引っ越す必要がありますが、そうでなければ、まだ住んでも大丈夫なのです。

 昔のやり方だったら、見つかるかどうかに関わらず、安全な方、つまり引っ越す方を選ぶのです。私はこの方法を長年使っていたし、この方法で何回も邪悪の妨害や迫害を避けたのです。しかし、体は迫害を避けたのに、心はまた迫害を黙認しているとすれば、どうやって根本的に邪悪の迫害を否定できるのでしょうか。いつかまた同じような事が出てくるのではありませんか。昔のやり方では、根本的に迫害を否定できないのです。問題にあった場合は、私たちは心性を高めなければならないのです。こうして初めて迫害を否定できるのです。

 内に向けて探してみると、この心細さ自体は邪悪の按排を認めることになり、邪悪の考えに従って物事を考えることになったと意識しました。それは全然修煉者の正念ではありません。常人社会のすべては法のために存在し、我々は主役で、我々こそ決定権があり、師父も守ってくださっておられるということを忘れたのです。

 明慧ネットではたくさんの同修は邪悪の按排を打ち破ることについて人の方法を使ったのではなく、皆正念で打ち破ったという経験談も交流したのです。ここまで思うと、私はすっきりとして、心が落ち着くようになり、邪悪を取り除くようにと正念を発しました。その力はとても比類のないほど強かったのです。他の二人の同修も心が動じることなく、私たちはずっとそこに住んでいました。そこで、私が悟ったのですが、安全に注意するということは人心で自分を守ることでもなければ、正念を強調することによって自分を表現することでもありません。それは法に対する正しい信念と正しい悟りであり、法が私たちへの要求に符合した時の自然の表現なのです。すべての修煉者は同じ次元にいるというわけではありません、しかし、どんな次元にいるとしても、その次元の法理に符合して、人心を取り除き、迫害を否定しなければなりません。実は後で振り返ってみれば、邪悪は何も出来ず、大法をちっとも破壊できないし、大法弟子を迫害することはできません。

 一層一層の私の迷いは法理によって打ち破られ、そして確実に修めることを通し、もう自分のことを特別に思うことなく、心が軽くなり、元通りの修煉環境も取り戻しました。私は他の大法弟子と同じように三つの事を行い、グループでの法の学習に参加し、同修と協力しながら全体のことを協調しています。私はやはり時々部屋で真相資料の編集の仕事をやっていますが、もう邪悪から自分を守るためにこのようにやるという考えを持たず、それは大法の需要であるように思っていました。私も車に乗る時や材料を買うチャンスを利用して直接真相を伝えることもあります。この一歩を踏み出したとはいえ、既にたくさんの時間を無駄にしてしまい、同修たちと比べて、まだ差があり、これから急いで追いつくようにしなければならないと思っています。

 (第四回中国大陸大法弟子修煉体験書面交流会交流原稿)

 2007年11月9日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/4/165774.html