日本明慧
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自分の考えを言い出す前に先ず内に向けて探すように


 文/台湾大法弟子

(明慧日本)同修の言行に機嫌を損ね、或いは癪に触って、即座に反論したら、大体効果が悪く、どちらも相手の話に耳を貸そうとしません。つまり、その時、両方とも常人の心を持っていて、常人のように扱ったからです。気と気の間には制約作用があるのでしょうか?

 師父がオーストラリアの学習者へ説法される時、自分の考え方を言い出す前に先ず内に向けて探し、自分を落ち着かせるようにすると教示してくださいました。私の理解ですが、先ず内に向けて探して初めて善意を持って、相手を理解できなぜそのように思うのか、このような行動を取るのかが、理解できるようになるのです。そして相手の状況を了解した上での発言は事実に近い、包容性があるもので、相手も素直に聞いてくれるのです。

 私は娘との間で起こった出来事を思い出しました。ある時、彼女がよく行わなかったので私は怒って、ずいぶんひどい言葉で彼女を叱りました。しかし、後で落ちつくようになってから、内に向けて探してみたら、自分が「真」をやり遂げなかったと気づきました。つまり、その時「善」と「忍」が無いので、事実そのまま言ったのではないと思ったのです。表面上事実を言っているように見えますが、実はそれは本当の事実ではありません。つまり、私はただ表面上の結果から彼女を判断したのです。それは彼女に対しては不公平なのです。彼女が今日のような言行があったのは、母親である私には責任が無いと言えるのでしょうか。昔、私は彼女を大事にし、彼女の生命に責任を負ったのでしょうか。

 このように思うと、私は彼女の欠点を包容することができるようになりました。彼女にこんな欠点があったのはいろいろな原因があるのです。彼女自分の責任がある部分もあれば、そうでない部分もあります。しかし、彼女自身の責任であるかどうかにかかわらず、私は彼女を包容し理解するべきだと思っています。もし彼女自身の責任であれば、これによって彼女が業を作ることになり、これから懲罰を受けなければならないから、私は彼女を許すべきです。もし彼女の責任でなければ、尚更彼女を手伝うべきです。

 同修に対しても同じですが、特に協調責任者に対しては更に包容すべきです。私はプロジェクトの協調責任者になったことはありませんが、ただマンハッタンへ真相を伝えに行く時に団長をして、それから酷刑展示会を行うときに協調責任者をしただけです。そして、その時間はそんなに長くないのですが、活動が終わってから、私はやらなくなったのです。しかし、驚いたことに、こんな短期間ながらも、私は「学習者よりも偉い」と言う心が生じてしまったのです。だから、私は長期にわたって協調責任者をしている同修のことがとても理解できるのです。彼ら(彼女ら)は長い間義務的にたくさんのことを行い、多くの代価を払ったので、私は彼ら(彼女ら)に感謝しなければならないと思っています。一部分の協調責任者はたくさんのことを担当したため、法を学ぶ時間が少なくなり、そして、他の同修が盲目的に崇拝し、彼ら(彼女ら)を褒め立てたので、彼ら(彼女ら)がだんだんと他の同修より偉いと言う心が生じてしまい、自分の理解が正しいと固持し、違う意見、耳に障る言葉を聞き入れなくなったのです。

 私たちは同修の不足を見つけたら、相手を包容し、善意を持って相手を理解し、相手の好きなやり方で協力して、私たちの誠意を感じさせてから、法に基づいて交流するのではなく、一方的に自分の考えを言い立て、更に自分の認識を相手に押し付けようとするのです。私たちの認識が法に符合するかどうかは別として、こういうやり方は既に法から外れているのです。だから、いい結果が収められないのも当たり前なのでしょう。

 個人の認識ですが、不適当なところがありましたら、同修の皆さんに慈悲なるご指摘いただくようにお願いします。

 2007年11月10日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/7/166074.html