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修煉中での法理昇華についての会得(上)


 文/ロサンゼルス大法弟子

(明慧日本)尊敬する師父、今日は! 同修の皆さん、今日は!

 私は1999年に法を得ました。法を得た最初のころ、師父のおっしゃった一つの言葉がとても印象深かったのです。それは「修煉の中にどのようなものであれ人間のものを加えることは極めて危険なことである」という言葉なのです(『精進要旨』「根を掘る」)。当時この言葉をとても特別に思っていましたが、その意味合いがよく理解できませんでした。もしも、この言葉が「修煉の中にどのようなものであれ人間のものを加えることは正しくない」だったら、わりと理解し易いと思いました。しかし、師父が「危険」という言葉を使われたのです。だから、このことはとても重大で、修めていけるかどうかに関わる問題であると思いました。しかし、このことがなぜこんなに深刻なのか? なぜ人間のものを加えると修めていけない危険性があるのか? 当時、私はよく理解できませんでした。

 ここ何年かの修煉、特に法を正す時期の大法弟子としての何年かを通して、私はこの言葉を更に深く理解できるようになりました。実は修煉というのは絶えず神の道を選ぶか、或いは人の道を選ぶかの過程だと私は思っています。

 自分がこういう選択に直面しているとはっきり分かっている時は、選択はそれほど難しくありません。たとえ一時的に執着心が重いため、間違った道を選び、人の状態に落ちたとしても、それは関をうまく乗り越えられなかったと自分ではっきり分かっているのです。一番難しいのはこのような選択に直面していることが分からないことです。つまり、長年、常人の中で形成した観念や思惟で法を正す過程に現れてきたことを判断して対処すれば、よく迷いを感じたり理解できなかったりするのです。普段しっかり法を学んでいないため、自分はその時の出発点が根強い常人の観念や思惟であると意識できないのです。常人の観念には良し悪しを判断する基準も含まれているのです。

 師父は『転法輪』の第一講の中でこのようにおっしゃいました。「ですから、修煉者としてはこの宇宙の特性に照らして、自分を律しなければならず、常人の基準で自分を律してはいけません。返本帰真を願い、上の次元へ修煉しようとするには、この基準に従って行動しなければなりません。一人の人間として、宇宙の真・善・忍の特性に順応できる人だけが本当に善い人で、この特性に背く人が、本当に悪い人です。職場で、あるいは社会で評判が悪くても本当に悪い人とは限らず、逆に評判が良くても、必ずしも本当に善い人とは限りません。一人の修煉者として、あなたがこの特性に同化すれば、得道した者となるのです。理はこんなにも簡単です」。

 私は法の学習が足らず、異なる次元での真・善・忍の基準を悟り、それによってすべてを判断することができない時、自然に常人社会で形成された観念で物事を判断し、その観念を基準に法を正す過程に現れたことを見なしてしまうのです。そして、常人の観念で物事の成り行きが説明できない時、迷いを感じ、なぜ私の想像したような結果ではなく、このようになってしまったのかと思ってしまうのです。甚だしい場合は師と法への確信がぐらつくこともあります。しかし、今、私は分かったのですが、この現象は正しく師父のおっしゃった「修煉の中にどのようなものであれ人間のものを加えることは極めて危険なことである」の一つの現れなのです。

 師父は「最後になればなるほど精進すべきである」と教えてくださいました。私の理解ですが、最後になればなるほどもっと高い法理を悟らなければならず、そのようにして初めて師父の法を正す過程に付いて行けるのです。しかし、悟ったというのは別に常人の賢さで空想したのではなく、それは師父の要求された三つのことを確実に行えば自然に分かることなのです。法を正す過程についていけないのは、表面上行動が付いていけないように見えますが、根本的には悟性と次元が法の要求に達しないからです。もし、ただ形式上法を正すことをいっぱい行うだけで、心性を高めていないとすれば、やはり根本的に問題を解決する事ができず、常人が大法のために何かをするようなことになりかねません。それに、そういう状態で法を正す過程に「付いて」行こうとしても、とても苦労を感じ、ちょっとうっかりすると、付いていけなくなるかも知れません。

 ここで悟性が付いていかないため、常人の観念で大法の中のことを判断した一つの例をあげてみましょう。

 例えば、新年祝賀祭の中には法輪功に関する演目がありますが、その演出を見たとき、私も含めて一部の修煉者は「法輪功に関する演目がこんなに多くて、常人が受け入れられるのか」と不安に思いました。

 それは一つの閃きなのですが、今振り返ってみれば、実はそれは自分が修煉上基準に達していない多方面での総合的な表われのように思います。先ず、自分が大法に対して確固たる正念、十分な信念を持っておらず、更に常人が大法に対して誤解するような考えも中に混じっているのです。

 考えてみれば、将来全人類が皆大法の真相が分かり、内心から大法を崇敬し、大法弟子に敬服する時、大法を称賛することは人類文化の一つの主題になるかもしれません。その時になると、法輪功に関する演目がこんなに多いから、受け入れられないと思うのでしょうか? 大法弟子は皆この真相が分かっていますから、最初から心の中で大法に関する演目に正しい位置を与えるべきではないでしょうか? 私たちは祝賀祭に確固たる信念を持たなければならないのではありませんか? 我々の考えは現場に居る観客に影響を与えているのです。それはちょうど師父が『転法輪』の中でおっしゃったように、「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」のです。もし私たちが心の落ち着きを失えば、現場にいる観客も同じような現われが出るかもしれません。

 私たちがこの祝賀祭の特殊性が分かると、それはただ表面上の形式的なものだけではなく、その裏には強大な力があり、その裏にある力が表面上の形式を通して作用を果たしているということが更に理解できるはずです。祝賀祭という形式も単なる形式ではなく、その内容も丹精込めて選んだもので、皆それぞれの目的を持っているのです。例えば、祝賀祭の中には、各朝、各民族の舞踊などがあり、西洋の管弦楽が伴奏しました。このような編成自体には深い内包があると私は思っています。

 各大窮は皆それら自分の文化を地球に持ってきました。師父は多分このように彼らの残した文化で彼らの天体の生命を探し、救い済度しようとしておられるのでしょう。そして、救い済度されたそれらの生命はもしかするとその体系の王や主であるかもしれません。

 それらの観客のフィードバックを見れば分かると思いますが、祝賀祭のある演目に特別な感想があり、それによって心の深いところに潜んでいる何かが呼び起こされたような気がする観客がたくさんいます。真相が皆演目に含まれていて、それは師父が直接に彼らを救い済度されることになるのではないでしょうか。そうすれば、弟子である私たちは自分の観念で判断していいのでしょうか。だから、祝賀祭の最終的な目的が衆生を救い済度することであり、単なる娯楽ではないということを我々はまずはっきりと認識しなければならないのです。もしただの娯楽、或いは正統な芸術を広めるためだったら、人々に知られている世界の名曲を多く演奏するほうがいいかもしれませんが、衆生を救い済度するためには、それぞれの演目は皆それなりの特別な作用と使命を持つようになります。(続く) 

 (2007年サンフランシスコ法会発言原稿)

 2007年11月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/7/166101.html