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修煉中での法理昇華についての会得(下)


 文/ロサンゼルス大法弟子

(明慧日本)ついでに最近悟った「信じることと悟ること」についての会得も申し上げたいと思います。師父は『転法輪』第二講の中でおっしゃいましたが、「この肉眼を通して、世界のあらゆる物質、あらゆる物体が見えると思う人がいます。そのため、彼らは目で見たものこそ真実で、見えないものは信じられないと固く思い込んでいます。

 昔はずっとこのような人は悟性が悪いと見なされていましたが、なぜ悪いか多くの人ははっきり説明できません」。目で見たものこそ真実で、見えないものは信じられない。このような人は悟性が悪いと見なされています。実はこの現象は天目に関わる問題だけでなく、修煉でのその他の方面においても同じ問題が存在していると私は思っています。ある学員たちは、常人社会で現れた現象を特に気にかけて、それをとても真実のように思い、大法に基づいて悟った常人の次元を超えた理をそれほど信じていません。それゆえ、このような人たちは、往々にして表面上に現れた現象に心を動かされて戸惑い、現象の裏にある真実が見えなくなっているのです。

 大法弟子として、法を正すプロセスの中にいる現在、私たちはこれと逆であってしかるべきです。私たちは、自分が大法の中で少しずつ昇華したこと、常人の次元での理解を越えた悟り、昇華して異なる思想境地で観えたものこそを真実であるとすべきです。

 『オーストラリア法会での説法』の中に、「夢の中で、先生は「真を偽まで修め、偽がなくなるまで修めれば、修煉は成就します」とおっしゃいました。」という弟子の質問に対して、師父は「二つの方面からこのことを見るべきです。まず、人類社会のこの現実は神の目から見ればそれは本当のものではありません。また、これはあなたが執着していることに対する本当の手引きであって、あなたが執着しているこの一面を指摘したものです」と答えられました。

 偽りを本当に真にまで修めることとは、私の理解では、人類社会での所謂現実を幻想と見なし、偽のように見なすべきです。そして、それは幻想である以上、それをまた未練がましく思い、執着する必要があるのでしょうか。このように考えると、その全ての虚像を放下するようになるのです。

 人間社会の現実はみな虚像であるなら、我々が法を正すことに対する確信は如何に表現されているのでしょうか。私の理解ですが、その確信は論理的な推理を前提としてはいけません。

 つまり、本当の確信というのは別に先ず人間の論理的な推理で検証しておくということではないのです。例えば、論理的な推理を通して、或いは常人社会の次元で検証したから、それは理にかなうと思い、そうでないと、理にかなわないと思う。このように考えてはいけないのです。根本は、このような状態ではありません。

 師父は『転法輪』第九講の中で「根基の良い人には白い物質が多く、この白い物質はわれわれの宇宙の特性と溶け合い、真・善・忍の特性と隔たりなく溶け合えます。そこで宇宙の特性が直接あなたの身体に反応し、直接あなたの身体と通い合うようになります」とおっしゃいました。

 私の理解ですが、本当の確信はつまり自分が法に溶け込んで、真・善・忍が異なる次元での基準に符合した生命になった時の表現なのです。目覚めて悟った本性は真実の全てを分かっているもので、それはもっとも自然でもっとも真実な生命の状態なのです。言い換えれば、確信というのは生命のもっとも真実で、もっとも自然な生命の状態なのです。それは我々が心を静めて法を学ぶ時、心身が全部法に溶け込み、師父の説かれた法理を固く信じて疑わないことと同じように、ごく自然な状態なのです。

 このような状態の下では、大法弟子は「不動にして、万物を動かす」ものとなり、人間社会の乱れた現象によって再び心が動かされることはほとんどなくなります。そして、この全ては法を確実に学び、確実に師父の要求された三つの事をよく行うことによって初めて成し遂げられるのです。

 以上は個人のちょっとした体験で、皆さんと交流したいですが、不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘を賜るようお願い申し上げます。

 師父に感謝を申し上げます。

 皆さん、ご清聴ありがとうございました。

 (2007年サンフランシスコ法会発言原稿)

 2007年11月12日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/7/166101.html