日本明慧
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「よく学ぶ」ことに対しての新しい認識


 文/中国内モンゴル大法弟子 呈如

(明慧日本)修煉して以来、私は法の学習をとても重視しています。そして、私は法を多く学んでいるし、よく学んでいて、よく修めていると同修たちにも言われています。私もそのように感じていました。

 しかし、昨日同修とグループで法の学習をする時に、私は「肉食問題について」の中での「原始社会から抜け出たばかりの人間は、主として狩りで生活を営んでいたので、多くの地域では肉食を主としていました」(『転法輪』)を読む時に、「生活を営む」という言葉を、なんと「生活を主とする」と読んでしまいました。同修に間違いを指摘された時、以前も法を読むときに読み間違えた事がありますが、今度だけはドキッとして、自分ながらびっくりしました。というのは、今までずっと「生活を主とする」と読んできたような気がしたのです。これはなんとそそっかしいことでしょう。悪く言えば、これは法に対して不敬な行為ではありませんか?

 以前、グループで法の学習をする時に、私はいつもこの同修がすらすら読めないとか、その同修の発音が正しくない、間違いが多いとか思って、法の学習が足りないから、こうなったと思っていたのです。しかし、自分が何年も読み間違えていたのに、全然気が付かなかったなんて、一体何処がよく法の学習をしていると言えるのでしょうか。その時、私はすぐ悟ったのですが、それは自分の名誉や利益を求める心、自己顕示欲、うぬぼれ、などの執着心によってもたらしたのです。それはとても深刻な問題で、これらの心を取り除かなければならないと決心しました。

 そこで、昨日の夜、法の学習をする時、一字一字を丁寧に読んでいくようにしました。すると、すぐに心が軽くなり、境地の昇華を感じられました。今朝、煉功して、6時の正念を発してから、6時55分まで法の暗誦をしましたが、いつも1時間に2ページしか暗誦できないのに、今日は3ページも暗誦することが出来たのです。それに、その感じも以前とは全然違うのです。それは自分がそれらのよくないものを認識し、取り除いてから、(本当は師父がそれらのよくないものを取り除いてくださったと思う)それらに妨害されなくなり、記憶がよくなってきたように思っています。今、私は「よく学ぶ」ことに対して新たに認識するようになりました。この体験を書き出すのはそれらのよくないものを暴き出し、取り除くと同時に、同修の皆さんと交流したいからです。

 不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年11月22日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/12/166383.html