日本明慧
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同修の迫害を見て、自らの内に探す


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)あるとき皆で法の勉強をしたさいに、ある同修は自分が妨害されていたため、同修たちに正念を発して手伝ってもらうように頼みました。すると、ある同修はこう言いました。「我々の責任の一つは邪悪を取り除くことで、邪悪が存在しさえすれば、何処にいるにも拘らず、我々はそれを取り除き、根絶しなければなりません。

 大法弟子は一つの全体で、誰への迫害も全体への迫害です。だから、誰が誰を手伝うと言うことではありません」。

 この同修の話を聞いて、私は自分との差を感じ、また普遍的に存在している問題も思いつきました。つまり、ここ何年間、よく誰かが邪悪に強制連行されたとか、誰かが迫害されたとか、誰かが病魔に妨害されたとか言うことを聞いていますが、その都度の私たちの第一念は何でしょうか。往々にして「彼は何をしたのか、きっと何か執着があるに違いない、彼自身でよく探すべきだ」と思っているのです。同修が魔難に遭ったと聞いてから、翻って内に向けて自分を探す人などいるでしょうか。同修のことを常に気にかけて、彼らが法を正すことに早く戻るようによく正念を発した事があるのでしょうか。このように言うのは別に同修を指摘すると言う意味ではなく、それは本当に自己反省してからの考えなのです。我々は無私無我で、なおかつ他人を先に自分をあとにするという境地まで修めようとしていますが、もし私たちは他人のことを先に考えるとすれば、我々の一言一行も無条件に内に向けて探さなければなりません。

 例えば、十数日前に、同じ職場で働いている同修は邪悪に強制連行されました。それを聞いた同修は「彼はそんなによく修めているのに、なぜまたこのような事が起きたのだろうか」と議論したのです。同修の皆さん、この一念は既に間違っていると思います。考えてみてください。もし私たちは皆その同修がよく修めていると思い、多少崇拝する心を持っているとすれば、それは邪悪に迫害の口実を与えることになるのではありませんか。その同修がもし他人の称賛を聴いてしまったら、歓喜心が生じても仕方がないでしょう。無条件に内に向けて探すようにと師父が教えてくださいましたが、私たちはどんなことでもどんな時でも無条件に内に向けて探すべきで、たとえ自分と全く関係がないように見えることでも、それを耳にすれば、内に向けて探すべきで、きっと探しあてることがあるのです。

 ある年配の同修が突如脳溢血になり、家族によって病院に搬送されました。すると、同修たちは集団で正念を発しました。しかし、正念を発することを止めると、「なぜこんな事があるのだろうか」「彼女のどんな落ち度があって、邪悪に隙に乗じられたのだろうか」と議論するようになり、直ぐにその(倒れた)同修にたくさんの執着を見つけました。それで「なるほど、彼女にはこういう執着があったのか」とほっとした同修もいました。

 このような考え方、言い方は正しいのでしょうか。それは間違っているでしょう。迫害された同修には確かに色々執着があるでしょうが、別にそれらの執着が現れてからすぐ邪悪に迫害されるのではなく、普段その執着の表現があったでしょう。そうしたら、他の同修はそれを目にして、なぜそれを指摘してあげないのでしょうか。彼女が受け入れないのを恐れるからでしょうか。それとも、彼女に憎まれるのを恐れたり同修間の「和気藹々」を維持しようとしたりするためでしょうか。どういう考え方を持っているにせよ、それは同修に対しての無責任な態度なのです。この方面の教訓はあまりにも多すぎました。だから、私たちは誰もが内に向けて探さなければなりません。もし私たちの一言一行が大法に符合しないならば、誰が喜ぶのでしょうか。それは旧勢力ではありませんか。これによって、同修の魔難を増大することにもなりうるのです。そして、私たちが基点を正しく置いていないため、正念を発しても、十分に効果を果たさず、引いては全然効果がないかもしれません。

 法を正す進展はもう最後に入りました。私たちは目覚めなければなりません。本当に自我を放下し、本当に内に向けて探す事を身に付けるようにして、本当に内に向けて探すことをやり遂げるようにしなければなりません。正に上記の同修の言ったように「邪悪の誰への迫害も実は我々全体への迫害なのです」から、同修には執着があったから迫害されたのだ、自分と関係がないのだとは思わず、修煉の過程で、私達お互いに注意し合いましょう。同修よ、内に向けて探したのでしょうか。

 2007年11月23日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/19/166812.html